SNSのプロフに、自分の顔写真、実名を載せたら?怖いけど、メリットだらけだから、僕は、載せると決めたよ

食べたこともないのに、嫌いと判断することを、「食べず嫌い」と言うが、それは、食べ物に限ったものではない。

「〇〇ず嫌い」=一度もやったことがないのに、自分の中の「やりたくないこと」BOXに入れてしまうこと。

「〇〇ず嫌い」は、全員ある。

僕も、今日、見つけた。

それは、SNS上に自分の顔写真、実名を一度も載せたことがないこと。

LINE、ブログ、TwitterいずれのSNSでも、顔写真、実名をさらしたことがない。

なぜ、そのことに疑問を感じたかというと、今、僕が購読してるブログは、共通して、顔も名前もブログにさらしている。

心屋も、Happyも、はるも、岡田も、あやも、ナリも、皆、顔も名前もさらし、自己開示の度合いが高い。

ほとんど100%の自分をブログで出しているように感じる。

100%に近い自己開示ということは、自分の良い面ばかりをブログで表現できるわけではない。

必ず、悪い面も出てくる。本人が意図しようがしまいが、悪い面は出る。

批判とか炎上とか悪口は、必ず出てくるし、それは、コントロールできない。

なぜなら、他人だから。いくら、やめてほしいと願っても、他人の行動はコントロールできない。

親が思うような子にはならなかったという話があるぐらいだから、無理なのだ。

それでも、顔や名前、コンプッレクス、弱みをブログ出していくのは、デメリットよりメリットのほうが多いからだろう。特に、これからの時代は。

というのは、社会は、今、企業で雇われる生き方から起業を含めた個人が各々の特色を出してお金を生み出す生き方に移行している。

だって、何年後か知らないけど、ほとんどの仕事がロボットに奪われるわけだから、想像するに、独創的で、唯一の技術を持ってて、他の人と違いを見せられる何かを持ってる人だけしか生き残らない。

そうやって、考えていけば、ブログ全体で、匿名ブロガーが90%で、顔も名前も出しているブロガーが10%っていうデータが出ているぐらいだから。

顔も名前も出せば、その時点で、他の人と違いが見せられる。

顔も名前もさらせば、信用される。デコポンがプロフのラインと自分の顔写真がプロフのラインどちらからきたラインを真剣に返す。

おそらく、顔写真が貼ってるほう。だって、LINEの名前が山田君で、写真がデコポンなら、一瞬、お前誰だよって他人は思う。

あと、余談だけど、高校、大学でモテてきた人ほど、ラインのプロフは、自分の顔写真で、全員際立ってイケメンとかっていうわけではない。ぶすもぶさいくもモテている人ほど、プロフは自分の顔写真。

 

まぁ、長くなったけど、これから、SNSで顔も名前も出していこうと考えてる人(僕含めて)に向けて。

まず、SNSで顔も名前も弱みも出すメリット。

・信用される

・アクセス数上がる、フォロワー増える

・友達も増える(弱みを隠してる人と隠してない人だと、隠してない人のほうが信用されし、ネガティブな印象を受けない)

 

次に、SNSで顔も名前も出そうとしたときに起こる現象・ジレンマ。そしてその対処法

・ブサイク、ブスと思われるのではないかという自意識➡ほとんどの人は自分に興味がありません

・そもそも、やりたくない➡一度もやったことがないなら、一回だけでもやってみたら。やったこともないくせに、やりたくないなんて言ってんじゃねよ(# ゚Д゚)

・個人情報が特定されるの怖い➡やらない理由を探すのに必死だね。

・漠然といろんなことが怖い➡行動するために、心理学ではアファメーションというものがあるのでそれを唱えてください。あくまで行動するためのツールですので、アファメーションなしで怖いまま顔も名前もさらけてください。行動するとは本来、怖いものです。でも、怖さの軽減はできるので、アファメーションしてください。今から書くので、引っかかるのをアファメーションしてくれても構いませんし、怖いものが明確ならそれを書いてくださって構いません

 

「ブサイク(ブス)だと思われてもいい」

「嫌われてもいい」

「失敗してもいい」

「陰で笑われててもいい」

「悪口言われてもいい」

「個人を特定されてもいい」

「失望されてもいい」

どれか引っかかるのありますか?なければ作る。もしくは、顔や名前をさらすことが目的なので、一番、怖いまま挑むことです。

開き直るとか割り切るっていう感覚で、怖いままいどんでください。

僕は、さっきも書いたように、顔も名前もさらけてません。徐々にさらけ始めようと思います。もっと信用されたいし、好かれたいから。

まずは、ラインのプロフを顔写真にする。もし、顔写真見て皮肉を言ってきそうな人がいたら、予めブロックしておく。ホントの友達なら、皮肉なんて言わないし、マイナスなこと言う人とは縁を切ったほうがいいから。

その次にフェイスブック。フェイスブックは、実名、顔写真が半ば前提になっているから、難易度も低めだと思う。

ブログも顔写真にしていこう。ゆっくりでいいから、やろう。

本音を外の現実にぶつけることでしか現実は変わらない

「心地よさ・好き・楽しい」のエネルギーから得られる現実は、なんとなく良いもの

「嫌い・居心地悪い」のエネルギーから得られる現実は、なんとなく悪いもの

 

昨日の記事を要約すると、こうなる。

根拠はあるのか?

「この世界は目に見えないもの=95%、目に見えるもの=5%で出来ている」

これで大丈夫?

というより、そんなもん、結局、自分が体感しない限り、分からないのよ。

僕や誰かが、ブログや本で、いくら、心地よいを選択することによる現実の変化を訴えたところ、それを読んだ人が、やらない限り、その人は、今の現実の檻から抜けられない。

誰でも、できる。あとは、「やるか、やらないか」を選ぶだけ。

各々の素質や能力なんて関係ない。だって、「できる、できない」の問題は、一切、介入してないから。

ただ単に、「心地よい!好き!楽しい!」というエネルギーを出すだけ。

おいしいものを食べれば、そのエネルギー出るだろうし、映画が好きなら、そのエネルギーでるだろう。

誰にだって、好きなことや楽しいと思えることをするだけ。

そうすれば、遅かれ早かれ、現実は好転する。

もし、好きなことや楽しいことがない.....。と言う人が結構、多いみたいだが、そんなもん嘘だ。

というより、「好きなこと」に対するスタンスが間違っているため、もしくは、我慢してたり、やりたくないことや嫌いなことをやっていれば、好きなことをやる時間どころか考えられなくなるから、「好きなことが分からない」という現象が起きているのだ。

だから、もし、あなたが「好きなことが分からない」と言うなら、まず、始めにすることは、嫌いなこと、やりたくないこと、我慢していることを少しずつ辞めること。

昨日、少し書いたけど、もし、「会社に行きたくない」という現実があるなら、行きたくない理由が明確にあるはず。

それを紙に書いていって、解決策を考え、実行すること。まぁ、解決策といっても、本音を外の現実、会社に向かって、ぶつけるだけだ。

仕事でできないこと、分からないことを抱え込んでいるなら、出来そうな人、得意な人に頼むこと。

それで仮に、自分で解決しろと言われたとしても、本音を言えた時点で、言えなかった自分より成長している。

今までは、問題を抱え込んで、隠し、逃げ回っていたけど、素直に、正直に、行動することによって、周りの人どうこうより、何より自分が変わる。

問題を隠したり、問題から逃げ回っている状態は、ネガティブなエネルギーが流れている。居心地の悪さだったり、不快だったり、不安や心配だったり。

目に見えないもの(エネルギー)がマイナスだらけなら、現実も悪い状態に決まってる。

それを、本音を言うことによって、目に見えないもの(エネルギー)がマイナスからプラスに好転する。

そうすると、現実もそれに応える。

本音を言うこと、やりたくないことをやめることをしてこなかった人は、相当怖いと思う。

でも、こればかりは、やらないと解決しない。それをやらせるために、あれこれ書いてきたんだけど、これ読んでる人は、僕ではないから、怖いものを肩代わりしたくてもできない。

だから、あなたが今、書いたことを体感しない限り、今の現実の檻の中。

結局、勇気をもって、怖いまま飛び込めとか良薬苦に苦しの感覚とかバンジージャンプ飛ぶ感覚に似てるとか書いて、背中を押してあげることしかできないだもん。

あなたは僕ではないから、こればかりは、どうしようもない。文章のジレンマだし、ブログ書く人の宿命だね。

体感だよ、体感。

好きなことに関する記事載せとくね!併せて読んでね♪

 

thinkergirl.hatenablog.com

 

 

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※よろしければブクマ登録お願いです(笑)

目に見えないもので目に見えるものは出来ている

この世界は、目に見えるものと目に見えないもので出来ている。

潜在意識と顕在意識。確認できる宇宙と確認できない宇宙。確認できる素粒子と確認できない素粒子。

それぞれ共通して、目に見えないもの=95%、目に見えるもの=5%の割合で構築されているみたいだ。

このことから分かる通り、目に見えるものは目に見えないもので出来ている。

もっと言えば、目に見えるものは目に見えないものの証拠、副産物でしかない。

だから、目に見えないもの(エネルギー)が良ければ、必然的に目に見えるもの(現実)は良くなるし、

反対に、目に見えないもの(エネルギー)が悪ければ、目に見えるもの(現実)は悪くなるという法則。

だから、今、これを読んでいるあなたが悪い現実ならば、悪いエネルギーが出ているわけだから、今、やるべきことは、良いエネルギーを出して、良い現実にしていくことである。

今、どういう現実なのか。はたまたどういう感覚なのか。

会社に行きたくないなら、なんで行きたくないか書いてみよう。

上司が怖いから?通勤時間が長いから?満員電車が不愉快?残業が多いから?

会社勤めをしたことがないから、分からないけど、やりたくないのには大抵理由があるわけで、理由が明確なら、その理由、問題から逃げないこと、我慢しないこと。

問題から逃げるから、いつまでも「会社に行きたくない」現実がついてくる。

上司が怖いなら、説教やめてもらえませんかとか優しくお願いしますとかなんでもいいから上司に対して本音を言おう。

上司を怒らせないように、ミスせず仕事をすることが解決策ではないから。

それは、単なる逃げだから。逃げても、その怖い上司という現実は居座り続けるから。

ちゃんと自分の本音に向き合って、それを現実にぶつけられるかどうかで、現実は決まる。

本音に気づいて、それを吐き出せたときって、気持ちいいよね。

その気持ちいいというエネルギーが、なんとなく良い現実をもたらすんだよ。

それは、具体的な物だったり出来事かもしれないし、気分かもしれない。

特定の出来事の引き寄せ方を僕は知らないけど、なんとなく良い現実のもたらしかたは知っている。

だから、目標や夢は捨てた。

今、この瞬間心地よさだけを選択すれば、半年後、一年後、なにが起こるかは分からないけど、なんとなくの良い現実があるとある時期悟ったから。

お金がなくてもあっても、心の豊かさは変わらず高いのは、なぜ?

限られた状況・環境でもすることは同じだなと今思う。

限られたお金で自分を喜ばせるモノ・コトに投資していく。

今よりお金があっても、結局同じ。

自分の心地よさに投資するだけだ。

お金は自分の心地よさを作るための単なる道具に過ぎない。

だから、自分の心地よさを作るためにお金は絶対条件かというとそれはノーだ。

ないならないで、他の道具で、心地よさを作る。

具体的には、他の人からお金をもらう、食事を奢ってもらう、、、などなど。

他にも探せば、いろいろある。

自分の心地よさに妥協しない覚悟さえすれば、あとはなにもいらない。

というより、自分を生きる覚悟さえ出来れば、自分が進むべき道も分かる。

例外なんていうものはない。自分を生きる覚悟、心地よさに妥協しない覚悟さえあれば、道は全員分かる。

というより、自分の感性に問いて、その答えを体感するだけだから、そんなものは全員がやろうと思えばできるし、やらなければやらないまんま変わらないだけ。

別に難しくもなんともない。

自分の感性・感覚に素直に従う。

好き・嫌い、やりたい・やりたくないの軸で行動する。

お金が無くて、困ってるなら、誰かに助けてもらえば、済む話なのだ。

それができないのは、何度も書くけど自分を生きると決めてないから。

社会とか常識とか他人とかそんなもの関係ない。

自分が自分らしくあれるのであれば、嫌われてもいいし、失望されてもいいし、怒られてもいいし、世間知らずと思われてもいい。

僕にとっての一番の恐怖は、自分の感性を捨て去ることだ。

「やりたくないことは、やめて

やりたいことだけやって

嫌いなことは、やめて

好きなことだけやって

思ったことは口に出す

我慢してることは、やめる」

最近、こんなことしか考えてない。

自分の中の「子供」を大切にする

今しているバイトも11月いっぱいで辞める。(モスバーガーと銭湯)

12月から3ヶ月新潟へリゾートのバイトをする。

とりあえず、3月末までは予定が決まっている状態で、今するべきことは、今しているバイトを11月まで、休まず行くこと。

11月まで行けば、その後行かなくていいわけだから、とりあえず、休まないことを心がける。

休まないと言うと、どうしても疲れても、頑張って職場に行くという世間的なイメージがあるけど、僕のイメージしている「休まない」は世間のイメージとずれている。

なんというか僕のは、もっと子供っぽい。

「がんばらない、できないことはできないと表明する、疲れない、サボる、できることだけする、頼る、任せる」

こういう風に箇条書きしてみると、やっぱり子供っぽい。

子供っぽくなればなるほど、心が豊かになるし、現実も緩やかに豊かになると信じている。

ただ、子供っぽさは、常識ではない。非常識だ。

だからといって、非常識が間違っているわけではない。

そもそも、社会に正しいとか正しくないという概念はない。

あったとしても、一時的な正誤であって、幻想だと思ってくれたらそれでいい。

ただ単に、子供っぽさは今の時代は非常識であるというだけであり、10年後、20年後は常識となってるかもしれない。

そして、なぜ、子供っぽさは非常識かというと、愚直に子供っぽさをしていけば分かると思うし、想像力を働かせればわかると思う。

例えば、できないことをできないと表明するとする。

まず、表明する側の心理として、できない=恥であるという考えを持っているため、他人に表明したら、恥ずかしいし、仕事ができない奴ではないかと思われるのではかと思ってしまう。特に、会社の中で、ある程度仕事ができるキャラとして通っているとしたら尚更、できないという表明はしづらくなる。

だから、もう早いうちに、これできない、あれわからないと言ってしまったほうが楽なのだ。できる仮面を外せば、愛想つかされたり、嫌われたりするかもしれないけど、それで離れるなら所詮、仕事ができる、できないで判断してたやつだから、遅かれ早かれそうなる。

このように、子供っぽさを体言すれば、リスクが発生する。

どういうリスクかというと

「嫌われる、失望される、愛想つかさる、無視される、陰口・悪口叩かれる、仕事ができない奴と思われる」

こういうマイナスを背負う可能性がある。

でも、子供っぽさをこれらのマイナスを覚悟して行えば、楽しいという感覚が味わえる。

 

あなたが現実を変えればいいし、あなた=現実になればいい(食欲編)

「今の現実に不満があるなら、

あなたが現実を変えればいいし、

あなた=現実になればいい」

 

今見ている現実、今まで見てきた現実が全てではない。

あなたの思考・感情・行動パターンを180度変えれば、180度違った現実がそこにあるだけ。

義務(~するべき)の価値観の人には、ちゃんと義務が与えられる。

逆に、欲求(~したい)の価値観の人には、やりたいことだらけの現実が与えられる。

よくある、「やりたいことがわからない」とか「やりたいことがない」という人は、欲求より義務を優先させて生きてきたため、自分の周りに「義務」だけがあって、やりたいことがないように思ってしまう。

実際に、欲求がないことなんていうのは、あり得なく、単に見えなくなっているだけである。

その見えなくなった欲求を見えるようにするには、はたまた、自分の周りをやりたいことや好きなことだらけするにはどうすればいいか。

それは、簡単。ミクロで、低次な欲求から順に満たしていってあげること

例えば、食欲。食べたいものを食べているか。惰性や習慣で食事を済ませていないか。

一日三食が食べないといけないと思っていないか。なんで、そう思ってるの。三食食べないとお腹が減ると思い込んでない。一回でも、意図的に、一日二食、一食に減らしたことある。ないなら、一回でもいいから試してみて。

少しの断食でも効果があるから。一食抜いたことで、他の自分の好きなことに時間を回せるし、胃の中に何も入ってないのも気持ちいいよ。

それは、常に、胃の中に何かが入ってる人には、分からない感覚だと思う。

 そういう人は、「何を食べたいか」「好きか嫌いか」の感覚が鈍っている。

なぜなら、基本が胃の中に何かが入っている状態なので、食べてから、少し時間が経ち、胃の中に空白ができたら、「お腹が減った」と思い、とりあえず、食事をとってしまっている。

おそらく、「お腹が減っている」状態を、悪いことだと思ってる節がある。

だから、過剰に食事をとるわけだし、胃の中が常に満たされてる状態をキープしようとするわけ。

よくよく考えてみて、胃の中が常に満たされてる状態って、異常なんだよ。

両手に荷物を持てば、その荷物に、少なからず意識を持っていかれる訳で、胃の中が満たされてるってことは、胃を意識し、かばいながら行動するわけだよ。

荷物持ちながら、仕事してたり、映画見たり、本読んだりしてたら、100%でそれに集中できないよね。

胃の中が常に満たされている状態は、まさにそういうこと。

僕の場合で言えば、胃の中に何か入ってないと落ち着かない時期があって、その時は、読書やブログといった多少の労力がいる好きなことをしているとき、眠くなって来たり、不意に横になりたくなるときがあって、それらに時間を割けないことが多々あった。

一日二食、一食にしった結果、好きなことややりたいことに時間を割けるようになったし、なにより、食べることの喜びが再確認できた。

欲求の純度を上げること

「着たい服を着ているか?」

「食べたいものを食べているか?」

「やりたいことをやっているか?」

「いいたいことをいっているか?」 

こういうことしか最近、考えてない。

「着たい服を着ているか?」と問われれば、

「一週間に一回は着ている」と答える。

ということは、ほとんどの日は、着たくない服、もしくは、今まで惰性で着てきた服を着ていることになる。

だから、「毎日、着たい服を着れるように」意識し、今日から過ごさなければならない。

一週間が二日に、三日にと、着たい服が着れるようになれば、欲求の純度も上がっていく。

そうすれば、日常の中で、豊かさを実感することができるはずだ。

ただ、「毎日、着たい服を着る」を意識する上で、注意しなければいけないのは、無理に欲求の純度を上げることである。

一週間に一回から、いきなり毎日まで、ジャンプできるならいいが、ほとんどの人は身の丈にあっておらず、無理な行為になる。

無理な行為というのは、収入のほとんどを洋服代につぎ込んだり、借金してまで、洋服を買うことである。

じゃあどうすればいいか、自分のできる範囲で、地味に、丁寧に、着実に欲求の純度を上げること。

一週間に一日なら、一週間に二日にすることは、ほとんどの人が無理しない範囲内だと思う。

洋服代稼ぐために、少しぐらい余分に働いたり、娯楽費を少し削れば、洋服代もまかなえるだろう。

そうやって、着たい服だけでなく、あらゆる欲求の純度を上げることは、毎日の、日常の中でやっていけば、日常の中で豊かさに気づける。

豊かさが「ない」のではなく、「ある」ということに.....。

それに気づくために、最初に書いた四つの文を意識し、行動する。

そして、四つの文は、いつも「~すべき」という文の邪魔にあう。

「どうしたいか?」と「どうすべきか?」という狭間で生きているのが、我々人間なのだ。

「会社が終わったら、すぐ帰りたい」と「会社が終わっても、みんな残業しているから、残業すべきか」みたいな選択に迫られ、ほとんどの人は、「どうすべきか?」を選択する。

なぜか?

それは、波風立てたくないからか、怒られたくないからか、今までと違う選択をして、自分の今の状態、例えば、「20」だとして、「0」に落ちることが怖いからだろうか。

でも、「0」に落ちるとも限らなくないか?「50」や「100」の状態まで上がれる可能性だってある。

メリットよりデメリット

希望より不安

プラスよりマイナス

にフォーカスし、意識してしまうのも、人間、みなそうだよ。

「起業したいけど、今の会社を辞めたら、収入がなくなるから、起業できません」

「フラれるのが怖いから、告白できません」

という二つの悩みは、根っこは同じである。その上で、自分の欲求を叶えてあげれるか。

もっといえば、マイナスを受け入れる覚悟、玉砕される覚悟を持てば、欲求に対して、力みもなくなる。

体操選手が一回目に失敗したから、二回目は開き直って演技しました的なもので、それを、ずっと、精神的に開きぱなししておけば、スムーズに欲に入り込める。