「押すなよ、押すなよ、絶対に押すなよ」から学んだこと
「押すなよ、押すなよ、絶対に押すなよ」という上島竜兵の熱湯風呂のギャグ。
僕の尊敬する芸人有吉弘行が、最も、尊敬する芸人が上島竜兵であり、それもあって、注目してみるようになった。
ただ、見るようになったと言っても、テレビで出てくるのは、「アツアツおでんと熱湯風呂」がほとんど。
「もう見飽きたよ」と思っても、なぜだか、笑ってしまう。笑いというのは、「共感と裏切り」「緊張と緩和」で出来ている。しかし、どれも当てはまらない。裏切ってこないし、ずっとほのぼのという緩和状態。
そんなダチョウ倶楽部を評して、有吉弘行は、こうあだ名をつけました。
「茶番劇集団」
ちなみに、上島竜兵のあだ名は、「豚の死骸」「水死体」というひどいもの。
こんなあだ名をつけられたら、誰しも怒るものだが、この人は、怒らない。もちろん、「アツアツおでんと熱湯風呂」でも怒らない。
脱線してしまった。本来、したいのは、そういうことではなく、この「押すなよ、押すなよ、絶対押すなよ」を見て、気づいたことを書きたい。
他人のタブーを冒したい
「押すなよ、押すなよ、絶対に押すなよ」
さて、このギャグを皆さん、どう見ますか。どう感じますか。
ほとんどが、「押すなよって言ってるけど、誰か押して。出来れば、画面の中に侵入して、私が押したい」と思うはずだ。
最後のは、蛇足だが、ここから分かることがある。それは、人間には、禁止を破りたいという願望、つまり、タブーを冒したいという欲がある。
その欲が如実になって出てるのが、このギャグだ。こういう心理が働くからこそ、食い入るように見てしまうのだ。
このギャグの場合、上島竜兵のタブーを冒した(当たり前だけど、押さないほうがタブー)。
なぜ、他人が上島竜兵のタブーを冒せたのか。
それは、一ミリもリスクがないどころか、ウケるというメリットしかないから。
逆に、リスクがあると、押せない可能性が高い。日本の熱湯風呂芸のことを何もしらないヒョードルやノゲイラを落としたところで、笑いなど起きない。
待っているのは最上級のリスクだけ。ヒョードルの氷のこぶしがさく裂して、あの世行きか、ノゲイラの柔術で、これまた、あの世行きか。どっちも地獄で、どっちも即死。
だから、人は、不用意に他人のタブーを冒さない。他人を見て、他人のタブーを冒すかを決める。
例えば、あなたに好きな人がいたとしましょう。友達に好きな人はだれかを聞かれたので、その人のことを言いました。そして、ほかの人には、ましてやその好きな人に好きだと思ってることを言わないように釘を刺しました。でも、次の日、ほかの人にばらされてた。
ベタな例だが、これも、他人を見て、他人のリスクを冒すかを決める一例である。
これも、自分にリスクがあったら、しないはずだ。
僕の場合で言うと、クラスで力があるやつの秘密を言うのは憚れる。
なぜなら、肩パンをされてしまうから。
逆に、力のないやつの秘密は言ってしまう。
だって、肩パンされないから。
自分のタブーも冒したい
人間には、タブーを冒したいという欲がある。
それは、他人に対しても、自分に対しても。
他人のタブーを冒せるかは、他人を見て、判断する。つまり、そこにリスクがあるかないかだ。自分のタブーを冒すのは、すべて、リスクがある。
タブーを冒したいけど、冒せない。そのジレンマは、リスクのせいだ。
僕のタブーを書いてみる
- 僕のブログを知人に見せる
- はてなブログproにする
- 他人を誘うこと
- 一番好きな人に話しかけること
- バイトに遅刻すること
- 目立つこと
タブーを冒したいと思ってる。でも、リスクがあるから冒せない。
恥ずかしいし、お金がかかるし、断られるかもしれないし、拒否されるかもしれないし、怒られるかもしれないし、白い目で見られるから、タブーを冒せない。
今の状態でも、生きていけるが、楽しくない。
タブーを冒そう。