「なんとなく」という理由で、断る

「卒業式に行きたくない」

理由はなぜかと問われたら、僕はどう答えるのか?

スーツを着たくない、卒業式は人が多い、電車の中は、スーツの人たちでいっぱいなどなどあるが、一番は、「なんとなく」行きたくないのだ。

理由は、「なんとなく」である。

断ること、辞めることには、理由がいるとだれしも思ってる。

なぜなら、それらマイナスの行為(断る、辞める)自体が、周りの人に迷惑がかかるからだ。

迷惑をかけることなのに、尚且つ、理由なしに断られたら、周囲の人間から、怒られるかもしれない。

もちろん、迷惑をかけるし、怒られる。理由なし、つまり、「なんとなく」なら、もっと怒られる。

でも、そもそもの「やりたくないこと」には、「やりたくない理由」があるのかという問題がある。

私は、やりたくないことにはやりたくない理由はないと思っている。

きゅうりを食べたくないのは、今、その気分ではないからである。その気分はいつか来るかもしれないし、一生来ないかもしれない。

欲求とは、気まぐれで、突発的で、理由がなくて、無意味なのだ。

そんな、無意味で、気まぐれなものに、理由をつける行為は、完全に相反してる。

だから、「卒業式に行きたくない」と思うのは、おかしなことではないし、ましてや、意味もないし、自分の中でも、相手にも「理由づけ」は必要ないのだ。

ただただ、「なんとなく」「気乗りしない」というふわふわした、抽象的なものでいい。

具体的な理由は、自分を苦しめる。(嘘の理由を考えたり、アリバイ工作するのはストレス!)

代償として、怒られ、嫌われ、友達失せてを受けるかもしれないが、自分らしく振舞えている。

「自分に嫌われないために、相手に嫌われる」という名言を、見たことがある。

これを言った人の真意は、知らない。でも、今では、僕の中では、この名言は、座右の銘に近いものとなっている。

この名言は、「自分に嫌われないために、相手に嫌われろ!」ということではない。(あくまで、僕の中での解釈だ)

この名言は、自分の欲を忠実に再現しようとすると、結果として、相手に嫌われるということなのだ。それと引き換え、自分に嫌われないということだ。

少し、脱線した。要は、「やりたいこと、やりたくないこと」には、意味や理由はない。なので、そこに、「意味づけ」や「理由づけ」をすればするほど、矛盾し、ストレスを抱えることになる。

だから、今、やりたくてやってることに、余計なモノを付け加えないほうがいい。僕は今、ブログを書いている。これがもし、金を稼げればいいなと思い始めたら、どうなると思う?ブログを書きたいという思いは、削られると思う。

意味もなく、ブログを書いている。限りなく、無心に近づける。そうすれば、生活の一部になる。いやいや、ちょっと、待てよ。生活の一部にしようとしている。これは、余計な意味づけ。いらない、いらない。

欲の本質は、無意味で、理由がなくて、気まぐれで、無条件である。

これだけ、気に留めておく。