主観の強さに憧れる
俯瞰的な自分が嫌いだ。
主観がある人の主観の強さを見せつけられるたびに、俯瞰的な自分を恨む。
飲み会やパーティで楽しめる人が、心底うらやましい。
僕は、冷静に、楽しいと思える理由を見つけようとしてしまう。
主観の強い人は、そんな僕をあざ笑うかのように、その場、その状況を楽しむ。
主観の強い人は、人生を楽しむ能力が備わってる人だと思う。
なぜか、僕の周辺には、そういう人がたくさんいる。
僕は、迷惑をかけたくないと思い、飲み会にもいかない。
なぜなら、楽しめないから。みんなが楽しんでいるときに、一人だけムスッとしている人がいると場も冷えると思って、行かない。
行かないのも、そこにいる人が嫌いなのではない。むしろ逆で、好きで、うらやましくだからこそ、そういう人の迷惑をかけたくないと思うのだ。
そんな僕でも、楽しいと思う瞬間がある。友達をうまく笑かせたとき、死ぬほど笑かされたとき。相手のディフェンスと1on1で勝ったとき。ラジオでメールが読まれたとき。雑談がうまく続いたとき。ブログを書いているとき。
少ないけど、僕にも、楽しいと思える瞬間がある。その瞬間は、鳥肌も立つし、自分が生きていると強く実感する。
それ以外は、今もそうだけど、「無」なのだ。苦しくもないし、楽しくもない。平穏無事でなによりだが、その状態は、飽きる。
だから、今、「楽しい」と思えることに衝突したいと願っている。動き回って、自分が「楽しい」と思えるモノ、瞬間に出会いたい。その分、苦しみへのリスクは伴うけど、「無」よりましだ。
僕の中では、「苦しみ」も「楽しみ」も、生きているという実感を引き出してくれるから。
生きているという実感を味わいたい。「楽しい」と思える瞬間を味わいたい。
そのために、動くこと。動かないと、「無」である。