おそらく、仕事は好きでやっている

今までの人生で、1位、2位争うぐらい「暇」な時期を過ごしている。

大学を終えて、学校へ行くという習慣がなくなり、その上、就職してないから正社員ではない。かろうじて、バイトだけはしており、「ニート」という地位にいないことだけが誇りである。

そのバイトも、正社員と違って給料は少ないうえに、シフトは希望より減らされることがあり、毎月の給料にもばらつきがある。

給料のばらつきはいいとしても、シフトを減らされたうえで、もたらされる「暇」というのはきつい。

元来、怠け者の自分が、「暇」すぎてしんどいというのは、皮肉なものだ。

基本、家の中でボーとしているのが好きな自分が、「暇」を使って、精力的にボーとしたために、ボーにも飽きてしまった。

そして、暇になって気づいたことがある。実は、仕事が好きだったということだ。

仕事による忙しさも、暇になった今、いとおしく感じる。普段、口下手でいえないけど、「働かせてくれる偉い人ありがとう」。そして、「忙しいという感覚さんありがとう」

それに、忙しさによる身体的な疲れって、快適な睡眠へと導いてくれる。今、身体が疲れてないから、思いのほか寝付くのが遅いし、そもそも疲れてないんだから、睡眠に感謝できないだよね。早く、睡眠に感謝したいから、仕事したい。疲れは、睡眠を促し、ゆえに、睡眠への調味料と化す。すごく今、疲れたいです。

あと、動かないとなまるから、次、行動するときの枷になることも気づいた。

これは、身体的にも、精神的にも、両方にいえることである。外に出るということ自体が非日常になるため、心身共にこわばってしまい、反応が遅れてしまうのだ。

風車は周り始めるまで、しんどくて、回り始めたら、多少、惰性でも動く。この状態に似ている。

動かないことが常だから、動こうとすると、しんどい。でも、動かないと、精神、身体という風車は、回ってくれない。多少、無理にでも、動いたら、勢いがつき、あとは惰性で動いてくれる。要は、強い意志がなくても、動くことが常になるから、勝手に動く。

だから、僕がやることは、少しずつでもいいから動くこと。これから先、やりたいことややりたくないことは、動かないと分からない。風車が回って、はじめて、エネルギーが供給できるように、動くことが通常になってはじめて、やりたいことや好きなことが供給される。なにもやらずに、やりたいことやすきなことがないとないものねだりしてもしょうがない。それを見つけたければ、動かなきゃ。「ない」宝物を見つけるために、動くこと。「ある」宝物と違って、手に入れるためのルートがない分、大変に感じるかもしれないけど、人間も、もともとは「ない」宝物を探す種なんだから。

赤ちゃんなんて、ほとんどないんだよ。願望も欲求も。動いた分だけ、願望も欲求も湧いてきた。産道から出なかったら、願望も欲求も打ち消されてたよ。産道から出たから、願望や欲求への可能性がでてきた。だから、動けば、動いた分、「好きなこと」「やりたいこと」出る可能性が広がるというのは、理に適っていると思う。

最初は、なにもない。だから、動け!もがけ!