相対的な幸せを諦めることは、ネガティブなことではない理由
みんなは持ってるけど、僕は持ってない。
そう思うことがよくある。
大学入ってすぐの頃、周りの人は友達を作ってたけど、僕だけ友達を作れず、独りぼっちという状況は一年続いた。
その状況を、ぼくは、「友達を作るセンスがない」と諦め、受け入れた。
要は、自分から友達を作ろうとする行為をやめた。これは、ネガティブなことではない。
「できない」と認めてしまえば、友達を作ることとは、別に、自分を肯定できるもの、自分を楽しませるものを見つけようとする。
現に、友達がいなかった一年間で、ラジオや読書やお笑いを見つけ、「友達がいない」という穴を埋めるどころか、心の拠り所となった。
ラジオや読書やお笑いを見つけ、心の拠り所となって、心境が変わった。
「友達が欲しい」⇒「友達がいなくてもいい」
そうすると、ますます「友達」というものを追い求めなくなった。
欲しいには欲しいけど、欲しいという思いが、心の拠り所が強固になればなるほど弱まった。
一年間友達がいなかったと書いたが、僕にも友達ができた。それも、友達が欲しいという思いがほんの少ししかなかったときだ。
嬉しいには、嬉しいけど、飛び上がるほど、嬉しくない。小さくガッツポーズぐらいだ。
そして、同時にこうも思った。
「相対的な幸せが手に入るのは、みんなよりだいぶあと。」
友達も知人も前より増えたけど、お金も、恋人も、ほかの人に比べたら、ない。
でも、僕は、悲観していないし、お金にも、恋人がいないことにも執着していない。
友達がいなかったときと同じ心境だ。
「お金はなくてもいい」「恋人はいなくてもいい」
でも、欲しいという思いがあるから、追い求めるには追い求めるんだけど、ゆるやかに追い求めてる具合だ。
そこまで、欲しないのは、それが、なくても、ある程度の心の豊かさが確保できてるからだ。
相対的な幸せへの諦めは、僕にはいろんなことを与えた。
まず、自分の中で幸せの物差しを見つけようとし、見つけたこと。
ラジオや読書やお笑いは、絶対的な幸せの物差しとなった。
そして、相対的な幸せへ挑むときにも、絶対的な幸せの物差し、心の拠り所は役に立った。
まず、相対的な幸せへのアプローチが以前より増えた。なぜなら、リスクを背負おうが、負ける可能性があろうが、心の拠り所があるおかげ、精神が安定しているからだ。
「負けても幸せ」「なくても幸せ」というところに行き着いたのも、負けの経験、相対的なものから見放されたことが多かったからだ。
いっぱい負けたからこそ学んだこと。それは相対的なモノや勝ち負けを諦め、自分の中で幸せを見つけようとしたこと。また、相対的なものに、仮に望んで、負けたとしても、負けに至った過程を認め、楽しむこと。