叶えたかった「夢」はないし、「夢」を叶える前にちゃんと考えて

(ここに「夢と挫折」について書いてください)

僕が、保育所に通ってた時、放課後、母親を待っている間、小さなグラウンドでバスケットボールを暇つぶしに地面についていました。

地面にボールをつき、手元に戻ってきたものをまたつくの繰り返し。

要は、簡単なドリブルである。保育所のとき、余りにも暇だったから、各々、大人から見たらしょうもないもので時間を潰すのだ。

砂場遊びも、遊具遊びも、ザリガニ戯れも、ボールつきと大差なくしょうもない。

そのしょうもないボールつきを毎日、やっていたのだが、ある日、とんでもなくボールつきが続く日があった。

いつもは、長くて10分ぐらいしか続かなかったのだが、その日は、放課後始まってすぐつき始め、母親が向かいに来ても、なお続き、結果的にボールがどこか飛んでいくまで母親を待たせる形になってしまった。

当時の体感としては、二時間ぐらいボールつきをしていたと思う。

その二時間、僕はものすごく気持ちよかった。何が気持ちよかったかというと、二時間ボールをつけたこと自体に対してもそうだし、その間、自分に大勢の関心を向けられたことに対してもそうだし、知らない子や先生にも終わったあと、褒められたことも気持ちよかった。

ふと、保育所のときのことを思い出した。ここで、ブログをアップしたら、単なる自慢話で終わってしまう。

僕は、自慢話を伝えたかったわけではなくて、このときを思い出したときに思ったのが、多くの人が持っている「夢」というものを叶えたとき、僕の幼少期の感動を超えるかという疑いだ。

ただただ、ボールをついた。それは「夢」とか「目標」とかという大層な言葉ではない。

ただ、「今」楽しむために、ボールをついている。

そしたら、たまたま、「結果」がついてきただけだ。(褒められる、関心の目)

最初から、「結果」を追い求めて、ボールをついていたわけではないはずだ。

保育園児の自分だから、そんな大人的な考えができるわけがない。

もし、その発想があったとしたら、「二時間」という記録にも到達していないだろうし、到達したとしても、記憶に残らないと思う。

なぜなら、保育所のときの記憶なんかみんなほとんど残っていないからだ。

残る記憶は、ある瞬間で、熱を注いだものだけである。

保育所のときしたあらゆる我慢や練習や努力は消える。

それは、将来大人になったときに、困らないための施しだったから。

一方、刹那に、今に、「熱中」したものは、不思議と記憶から消えないのだ。

思い出せるけど、大人になると、子供のときの感覚を忘れてしまう。

「夢」とか「目標」という言葉が目立ち、嫌でも、意識してしまう。

そうなるとその「夢」とか「目標」という結果が出るまでのあいだ、我慢や努力という苦しみを伴うはめとなる。

それは、おかしい。未来のために行動することが正しいみたいな風潮があるが、考えてみてほしい。

僕たちは、「今」を生きてるんだよ。

だから、まず、「夢」を設定してというのが、おかしい。逆でしょ。

普通、「今」を考えるはずじゃない?

(今)やりたいこと

(今)やりたくないこと

(今)好きなこと

(今)嫌いなこと

を考えればいいだけであって、それ以外、なにもいらない。そしたら、「夢」とか「目標」とかっていう結果もあなたに届くんじゃない。

だって、未来は、「今」の連続で作られてるんだから。

というか、「今」楽しいんだから、夢かなえるとかってどうでもいいんだよね。
Netflix火花お題「夢と挫折」

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