あーおもしろくなりたい

なぜ人は読むのか?

ブログでも小説でも自己啓発本でもエッセイでもなぜ、読むのか?

という問題がある。

例えば、自己啓発本。

・人見知りを直したい

・上司に気に入られたい

・年収を増やしたい

そういうことを間接的に叶えてくれるものだ。

本自体が人を変える能力はなく、本は、杖とかビート板の役割をするだけで、本人が変わりたいと思ったら、結局のところ、本人が動くしかない。

だから、本なんか読まなくたって、成功するし、社長にもなれるわけだ。

その成功した人、社長が書いた「あらゆることで成功する方法」が自己啓発本ということになる。

それを書くのは、単にお金を稼げるからというのもある。

もう1つは、「成功する方法」を書くことによって、読んだ人に、「役に立った!」「明日から実践しよう」と思われたいという思いもあると思う。

実際に、一冊の自己啓発本を読むことで変わるかどうかさておき、書いてそうやって認められれば、「承認欲求」が満たされ、書いてよかったなと思い、また、本を書くという循環になる。

さも悪いことのように書いているが、そんなことない。

「承認欲求」に突き動かされて、書くのは、当たり前だ。

小説もエッセイも、結局のところ、突き詰めれば、「承認欲求」だし、

ある程度、「役に立った!」とかそういう人の感受性に訴えかけるものを書けるから、

次もまた一冊書けるのだ。

「売れたらまた書ける」

「認められたらまた書ける」

当たり前のことだけど、すごくいい循環なのだ。

それで、僕自身、ブログを書くことによって、他人にどう思われたいか、他人のどの感情を刺激したいかと考えてみた。

僕も含めて他人というのは、自分にとって「役に立つ情報」「知れば楽になる情報」しか取り入れない。

だから僕も、ブログを書くときに、読んだ人が少しでも楽な気持ちになったとか明日からここに書いてあることを実践しようと思ってもらえるような意味のあること書こうとしてきたつもりだ。

要するに、読んだ人に、「役に立った!」と思われたかったんだと思う。

でもね、矛盾するようだけど、そういうあんまり好きじゃないの。

例えば、会話してて、楽しいなって思う人って、シンプルに面白いっていうだけで、

意味のあること言ったり、真面目な人とか、知識でがんじがらめになってる人あまり好きになれないわけ。

シンプルに面白い。それだけ。

その人が言うワードがおもしろかったり、例えがおもしろかったり、言葉だけじゃなくて、その人自身がおもしろい人のほうが一緒にいて楽しいし、そういう人になりたいなって思う。

ってことは、「おもしろい」ことにも需要があるってことになる。

だから、小説とかエッセイも存在してるし、ドラマもお笑いも存在してるんだと思う。

僕は、面白いことのことのほうが断然親しみがある。

だって、自己啓発本も読まないし、意味のあることも、役に立つ情報にも触れずに、お笑いと小説、エッセイのほうが読むから。

「役に立つ」ことを読んで感銘は受けないけど、星野源とかオードリーの若林のエッセイ読んで、ある箇所の一文を読んで「この表現いいな」と思うし、気づきとか目の付け所にすごいと思うわけ。

僕が憧れるのは、面白い表現だったり、

秀逸な例えだったり、

みんな変わらない日常の風景を見ているはずなのに、独特な視点から発見した非日常が書かれた文章

自分の言語化できない感情だったり感覚を言語化されてたら、感動する。

あー「おもしろくなりたい」

 

 

 

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