「楽しいこと」を選ぶためだけに、捨ててきたもの

自分が「楽しい」と思えてることが、一番大切だと決めたとき、捨ててきたものが結構ある

・常識

・恥をかかないこと

・目立たないこと

・意地を張ること

・世間的な安定にこだわること

・笑われること

・嫌われないこと

・怒られないこと

自然と捨てたし、自然と捨てたものに興味なくなる。

「名前のある大学を卒業したのに就職しないのもったいないね」って、言われることがある。

ムカつきもしないし、興味もない。耳タコできるぐらい聞かされたけど、ハナから「就職なんてどうでもいい」と思ってるし、「安定なんてどうでもいい」と思ってる。

なんせ「楽しいこと」が一番だから。

世間的な安定の中に「楽しいこと」があるなら、迷わず取りにいくけど、ないから行かない。

嫌われないことでいいたいこといえるなら、やりたいことできるなら、楽しいことできるならいいけど、いいたいことが嫌われる可能性があるなら、「嫌われない」の価値観を外す。

僕にとって、嫌われないことより、言いたいこと言えてる状態、楽しいことできてる状態のほうが大切だと思ってるから、結果的に、うまくいかなったとしても、嫌われたとしても、「ふーん」で終わってしまうのだ。

嫌われたもんはしょうがないし、

就職しなかったもんはしょうがないし、

恥かいたもんはしょうがないし、

それと引き換えに、「楽しい」が得られるなら、喜んでその損受けられるし、その損受け続けると、損になれて興味なくなっちゃうしね。

だって、楽しいもん。

あとは、どうでもいい。

負けるのも嫌われるのも世間からずれることも怖くない。

怖いのは、負けないようにしてるとき

嫌われないようにしてるとき、

正しいか正しくないかで判断してるとき、

怖いし、疲れる。

自分の感情押し殺して、いいたいことも押し殺して、やりたいことも我慢してっていう状態が一番、疲れる。

その状態が長く続くと、やりたいことをやる身軽さがなくなって、重くなる。

・話したい人に話せなくなるし

・言いたいこと言いにくくなるし

重くなった状態、いいたいこと言わない状態、やりたいことやらない状態が持続すると、最初いた身軽さを手に入れようとしたとき、相当な勇気がいるようになる。

去年一年我慢した人間は、来年も我慢することは想像できる

10年我慢した人間は、来年も我慢することは想像できる

我慢することのほうが簡単な状態のとき、

右投げのピッチャーが右で投げるのが当たり前のとき、

それを我慢しないを選択するとき

左で投げるのは、相当な勇気が必要になる。

「楽しいこと」を選択するとき、勇気は必要不可欠だけど、その勇気に伴う怖さも重いより軽いほうがいいから、さっさと負けるんです。

 

 

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