「社会人として、正しいか正しくない」を考えてみる
「社会人として、正しいか正しくないか?」
普段、考えることがないので、改めて、考えてみたいと思う。
なぜ、「社会人として、正しいか正しくないか?」を考えたことがないかというと、シンプルに僕にとっては、必要なかったからだ。
それを考えるかわり、「どうやったら、自分が楽しめるか?」をひたすら考え、実践している。
その結果、毎日楽しいし、就活の面接まで行こうとしている。たいしたもんだ。就活しようとなんて思わなかった一年前と比べて遥かに進歩した。自分で自分を褒めてあげたい。
「どうやったら、自分が楽しめるか」だけを考えてきた人間が、「社会人として、正しいか正しくないか?」が分かってるのか、世の中的に見て、自分がしてる行動は、正しいのか分かってるのかと聞かれると、僕自身の答えとしては、「かろうじて、分かる」になる。
まぁ、たぶん、多数派の意見が正しいのということになる。
その場の空気を読んで、正しいことを選べる人が、「世の中の正しいが分かる人であり、客観的に物事が見れる人」ということになる。
僕は、元々、客観的に物事が見れる人だったと思う。てか、仕事となると、その場の状況を読んで行動しないといけないから、自分の中の客観性は出さないと行けなくなる。(それはいいんだけど♪)
で、「人生、楽しもう」モードで生きようと思ったら邪魔になるものがあるわけ。
それが、「正しいとか正しくないを判断する客観」ね。
だってね、僕がサッカーを楽しいと思っても、サッカーを楽しくないと感じる人もいるわけだし、じゃがいもがおいしいと感じる人も、まずいと感じる人もいる。
感性、感覚って人それぞれでしょ。
楽しいもうれしいも「感覚」から来るものだから、正しいとか正しくないっていう尺度を参考にすると混乱しちゃうわけ。
だって、世の中的に正しくない行動でも、自分は楽しいと思えることなんて多々あるわけだから。
例えば、大学四年生になれば、就活して就職することが多数派であり、一応、正しいわけじゃない?まぁ、仏の道だね。
僕は、大学四年のときは芸人になろうと思って、養成所入って辞めて、その後も就活もおろか、一人暮らしを始めたわけ。多数派でもない。正しくない。邪道ということになる。
まぁ、でも多数派じゃなくても、自分が楽しむための行動を、純粋に選んだのが、邪道ということになる。
邪道を選ぼうとして、選んだわけじゃない。「今、楽しむこと」が前提になってくると、自然と、正しくない道、邪道になるってだけ。
現に、正しくない道を選んだ結果、楽しめてるわけで、ということは、自分の中では正しくて、世間から見たら、正しいのか正しくないのか、そんなもんは知らん。多数派の原理から言えば、正しくないと思うよ。
どうだ、自分の中にある「客観的」を絞り出してやったぜ♪
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