夢を否定し、日常を肯定する

ラジオを聴くのが日課だ。

おぎやはぎのラジオも毎週木曜日マストで聴いている。

彼らのトークは、脱力で始まり、脱力で終わるし、人々の役立つような情報を話さない。

つまり、意味のあることは話さず、無意味なことしか話さない。

ここまで書いて、「脱力、無意味」など彼らを表すワードを書いたが、彼らをディスってる訳ではない。

むしろ、「脱力で、無意味である」ことは、彼らの強みであり、芸人としての強みでもある。

まぁ、おぎやはぎに関するブログは今後、機会があれば、書くとして、先週の木曜日のおぎやはぎのラジオで、おぎやはぎの10周年ラジオライブのことをオープニングで話していた。

そのライブに、森山直太朗が出て、「桜」を歌ったらしいのだが、矢作は歌を聴いて、「金を稼げる声ってやっぱ違うね~」とラジオで話していた。

僕にとって、無意味の体言者であるおぎやはぎから始めて、意味のある言葉を勝手に受け取った。単に、感想を言ったまでだと思うが、僕は、彼らから始めて意味を受け取ったから、この言葉を掘っていきたい。

夢ではなく、ただ得意なことをやっただけ

森山直太朗にとって、歌手は夢ではなかった。

彼が、テレビで言っていたが、高校生ぐらいまでは、カラオケに行っても、進んで歌わなかったと自身のエピソードを話していた。

そこから、プロになっていくまでの話は忘れたが、恐らく、彼自身、歌うことはそこまで好きではなかったのではないかと推測される。

かといって、嫌いでもなかったはず。好き嫌いという感情の尺度で測れば、ただ中庸、フラットであり、しかし、ものすごく歌うことが向いていたはずである。

歌手になることが大勢の人にとっては夢である一方、彼にとって、その夢は日常に、仕事に落とし込めるのだ。

これでも分かる通り、好き嫌いは、向き不向きに関係ない。「好きだから、向いている」「嫌いだから、向いていない」という方程式も成り立たない。

だから、お金を稼ぐという側面だけに焦点を当てたいなら、「向いているか向いてないか」を考えればいい。

また、向いてないことは趣味としてやればいい。お笑いも、料理も、映画を見ることも、向いてないけど、自分を豊かにするために、向いてないことも効力を発揮してくれる。くれぐれも、向いてないことを追い続けることを、夢を追うことと言い換え、いつまでも戯言を言うことは痛々しい。

その夢みたいなものは、趣味で留めておいて、他の自分にとって簡単にできるもので稼ぎながら、趣味に没頭しなさい。

直太朗にとって、当たり前に歌うことがうまいように、あなたにとって、他の人には難しいけど、簡単にできることがあるから、それを見つけよう。

夢を否定し、日常を肯定しろ!

叶えたかった「夢」はないし、「夢」を叶える前にちゃんと考えて

(ここに「夢と挫折」について書いてください)

僕が、保育所に通ってた時、放課後、母親を待っている間、小さなグラウンドでバスケットボールを暇つぶしに地面についていました。

地面にボールをつき、手元に戻ってきたものをまたつくの繰り返し。

要は、簡単なドリブルである。保育所のとき、余りにも暇だったから、各々、大人から見たらしょうもないもので時間を潰すのだ。

砂場遊びも、遊具遊びも、ザリガニ戯れも、ボールつきと大差なくしょうもない。

そのしょうもないボールつきを毎日、やっていたのだが、ある日、とんでもなくボールつきが続く日があった。

いつもは、長くて10分ぐらいしか続かなかったのだが、その日は、放課後始まってすぐつき始め、母親が向かいに来ても、なお続き、結果的にボールがどこか飛んでいくまで母親を待たせる形になってしまった。

当時の体感としては、二時間ぐらいボールつきをしていたと思う。

その二時間、僕はものすごく気持ちよかった。何が気持ちよかったかというと、二時間ボールをつけたこと自体に対してもそうだし、その間、自分に大勢の関心を向けられたことに対してもそうだし、知らない子や先生にも終わったあと、褒められたことも気持ちよかった。

ふと、保育所のときのことを思い出した。ここで、ブログをアップしたら、単なる自慢話で終わってしまう。

僕は、自慢話を伝えたかったわけではなくて、このときを思い出したときに思ったのが、多くの人が持っている「夢」というものを叶えたとき、僕の幼少期の感動を超えるかという疑いだ。

ただただ、ボールをついた。それは「夢」とか「目標」とかという大層な言葉ではない。

ただ、「今」楽しむために、ボールをついている。

そしたら、たまたま、「結果」がついてきただけだ。(褒められる、関心の目)

最初から、「結果」を追い求めて、ボールをついていたわけではないはずだ。

保育園児の自分だから、そんな大人的な考えができるわけがない。

もし、その発想があったとしたら、「二時間」という記録にも到達していないだろうし、到達したとしても、記憶に残らないと思う。

なぜなら、保育所のときの記憶なんかみんなほとんど残っていないからだ。

残る記憶は、ある瞬間で、熱を注いだものだけである。

保育所のときしたあらゆる我慢や練習や努力は消える。

それは、将来大人になったときに、困らないための施しだったから。

一方、刹那に、今に、「熱中」したものは、不思議と記憶から消えないのだ。

思い出せるけど、大人になると、子供のときの感覚を忘れてしまう。

「夢」とか「目標」という言葉が目立ち、嫌でも、意識してしまう。

そうなるとその「夢」とか「目標」という結果が出るまでのあいだ、我慢や努力という苦しみを伴うはめとなる。

それは、おかしい。未来のために行動することが正しいみたいな風潮があるが、考えてみてほしい。

僕たちは、「今」を生きてるんだよ。

だから、まず、「夢」を設定してというのが、おかしい。逆でしょ。

普通、「今」を考えるはずじゃない?

(今)やりたいこと

(今)やりたくないこと

(今)好きなこと

(今)嫌いなこと

を考えればいいだけであって、それ以外、なにもいらない。そしたら、「夢」とか「目標」とかっていう結果もあなたに届くんじゃない。

だって、未来は、「今」の連続で作られてるんだから。

というか、「今」楽しいんだから、夢かなえるとかってどうでもいいんだよね。
Netflix火花お題「夢と挫折」

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買いたいものを買うことと食べたいものを食べることで勘違いしてほしくないこと

人には「浅い欲」と「深い欲」がある。

というより「単に欠落感を満たすための欲」と「各々の本質的な欲」といいましょうか。

構造的には、「深い欲」の上に、「浅い欲」が覆っているイメージである。

よりよい方向に導きたいなら、「深い欲」に従ったほうがいい。

なにをより良い方向に導くのかというと、それは「全部」である。

気分が軽いとか心地よさといった心理的効果をもたらし、はたまた心理的な健全は、病気もしにくくなる。(病は気から)

最初は、心理的側面、要は、目に見えないところが良い方向に向かい、後々は、目に見えるものが良くなったり、もたらされたりする。

「収入が増えた」とか「友達が増えた」とか「恋人ができた」とかである。

要は、世間では、「結果」と呼ばれるものがもらえる。

まぁ、これも個人差があって、「結果」がついてくるのが、速い人もいれば、遅い人もいるから、「結果」は気にしなくていいというのが、僕個人としての意見だが...。

まぁ、要は、「深い欲」に従ったほうがいいよってことなんだけど、なんで、「浅い欲」に従ってはいけないのか、はたまた、「浅い欲」「深い欲」について、具体的に書きたい。

「衝動買いする人」=「浅い欲を満たす人」

近所によく見かける親子がいる。

その親子を見るたび、両手にファッションブランドやコスメブランドと思しき紙袋をぶら下げている。

大げさではなく、毎度毎度、両手いっぱいに持っている。

その現象、少し考えてみたい。

「毎度毎度、両手いっぱいに持っている」ということは、結果的には、買い物に満足していないことを意味する。

満足してたら、毎度毎度、紙袋いっぱいにする必要はないから。モデルや女優なら、話は違うかもしれないけど、お世辞にも、そうは見えなかった。

ということは、服やコスメを買うことで、一時的な豊かさを感じている可能性がある。

服を買うことは、豊かさと直結しているのだ。まぁ、それで終わればいいのだが、ずっとぼくが「両手に紙袋ファミリー」をいまだに見るということは、あくまで、買い物による、豊かさは刹那であることがわかる。

「目に見えるもの=充足感」という勘違いから抜け出さない限り、この親子は、一生、「両手に紙袋ファミリー」として、存在する。

「目に見えないもの(感情や心地よさ)=充足感」という思い込みになって始めて、過剰な買い物をしなくなるはずだ。

「両手に紙袋ファミリー」も、服を買って、買ったことによるその服への満足感得ようとしてるんだと思うんだけど、満足感なら服を買うこと以外でも得られるよね。

この親子の場合、買い物が単なる刺激になっちゃってるのよ。買いたいものを買うことはいいことなのよ。

でも、単に刺激を味わうための買い物と買いたいものを買う買い物は別物だよ。

分かってると思うけど、前者は「浅い欲」で、後者は「深い欲」だよ。

「浅い欲」を消して、「深い欲」で過ごすコツ

ぼくは、刺激が引き金となる「浅い欲」がないと思っていたのだが、とあるきっかけで、それが見つかった。

それは、「一日一食」を始めたことによる、「浅い欲」の発見だ。

一週間前まで、「一日二食」で、朝に買ってきたパンを食べ、夜に自炊して食べていた。

今は、昼の二時頃に、スーパーで食材を買ってきて、調理し、食べての、その一食だけである。

その生活を一週間続けて思ったのが、一週間前まで食べ続けていたパンは、単に、食欲を満たすためだけに食べていたのではないか。

ホントにパンを食べたくて、食べたのではなく、「朝食べるのが常識」という社会通念に単に従って、食べたのではないのかという疑惑である。

なぜなら、パン食の期間は、同じパンばかり買っていたし、食べているとき満足していたかというと、惰性たべているイメージが頭に残る。

逆に、今は一食ではあるが、しっかり食べたいものを食べている。

単に、食欲や空腹を満たすためだけに食べてない。それは、刺激や惰性による飲食である。

今は、自分の直観や思考に問いかけ、「今日は何を食べたい」かを紙に書いている。

また、「一日一食」にしたことで、時間が出来、趣味に時間を費やすくなった。

だから、今、のんびり、ブログを書けてるし、これから、ブログ更新の頻度が増えるかもね。

他人の期待じゃなくて、自分の期待に応えなさい

11月末で今しているバイトを辞める。(モスバーガーと銭湯)

その後は、短期のリゾートのバイトをする。(1~2ヶ月)

ここまでは、決定事項だ。バイトを辞めることもはたまた新しいバイトを始めることも仕事ができるできないとは関係ない。

単に、勇気の有無である。現に、今まで自分の意志でバイトを辞めてきた。

どのバイトも長く続いたが、続けてくると必然的に出てくる仕事への飽きが原因でしか辞めてない。

体力的にも精神的にももう無理だと思ったのは、引っ越し屋のバイトだけで、それはすぐに辞めた。

それ以外は、総じて楽だった。コンビニもスーパーの品出しも今しているモスバーガーも銭湯も楽だ。

楽しいかと問われれば、クエスションだが、苦しいかと問われれば、完全にノーである。

年経てば、経つほど、仕事に対して、苦しいという感覚は薄まってきた。それは、仕事に対するスタンスが、徐々に変化したからだと思う。

バイトを始めた当初は、偉い人が定めた仕事に対する答えに満たすように、働かないとダメだと思い込んでいた。

でも、バイトしてて、他の人見てて、気づいた。

バイト中に、スマホいじるためにトイレに頻繁に行くやつでも、客がいるのに、バイト連中が、デカい声で雑談してるやつでも、平気にバイト先には、いると気づかされた。

その当時、いい加減な連中だと思い込んでた連中は、「偉い人が定めた仕事に対する答えを満たすように働く」という僕の価値観を、いい意味でひっくり返してくれた。

スマホはいじるけど、自分のできる範囲で仕事はするし、雑談はしてるけど、手あしはしっかり動かしてる。

この人たちは、他人が定めた仕事に対する答えを満たすように、そもそも仕事していない。

自分が今日できることだけしているというそもそも当時ぼくが持っていた仕事観とは、反対の仕事観を持っていた。

これは、大げさではなく、人生で行動するための大きな指針となった。

要は、他人を慮ることを拒否し、できるだけ自分の軸だけで行動しようとした。

これは、大きな変化だ。まず、行動する上での、速度が上がった。

バイトを辞めるときも、普通の人なら他人に迷惑をかけるという意識が出て、辞めるのが遅れたり、はたまた、嫌々ながら続けることになってしまうかもしれない。

僕の場合は、他人に迷惑をかけるという思いを無視します。僕も、人間ですから、その思いというのは浮上し、見えはしますけど、遮断します。

その代り、一番、自分にとって大事な決断はできます。それは、「バイトを辞める」という行為です。「辞めたい」と直感という自分の心からの叫びを感知したら、その流れにのれる。要は、「バイトを辞める」にたどり着けます。

 

 

だから、なんだっけ。11月末で今のバイトを辞めることは決定してて、それで、なんだっけ。

思い出した。11月末まで、変わり映えのない日常を送る可能性が大きいなということ。

経済力は、現状どおり、恋人はおらぬまま。それで今現在、不幸かと言われれば、60%ぐらい幸せというのが妥当だろう。

だって、本読めるし、ランニングできるし、料理できるし、映画見れるしって、今、自分が持ってるもので、幸福感はある程度は作れてるからね。

11月末まで、先挙げた物質的な幸せは来ないと思っておいたほうがいい。

現時点で、そんなもん期待してないんだけど、まぁ、改めて確認の意味でね。

だから、より一層、今持ってるもので、日常を自分がしたい色に彩るかが重要なはず。

本やランニングや料理や映画やに加えてなんかということだ。今、自分に与えられたもので、自分を幸せできるもののパイを増やすことは、11月末まで想定内の日常を送る僕にできるもう一つのバイトかもしれない。

「残高不足!」に対するアンサー

今日、銀行から5000円を引き出そうとしたら、「残高不足!」と赤い文字でATMは表示した。

ATMにも人間の心というものを所有していたら、単に、「残高不足!」と警告しないはずだ。

「お金ないんだ~」という哀愁の意を込めながらの「残高不足」を伝えるのかなとふと思った。

そして、書いてて、気づき、思う。まったく蛇足だし、文章を消そうと思った。

蛇足だし、つまらないし。いや、自分がつまらないと思って、他人がおもしろがってくれる分にはいいんだけど、大抵、自分がつまらないと思ったものは、他人から見ても滑っているのだ。

なんて、講釈を垂らしているわけだが、結局、最初の無駄話も残しておくことにした。

つまらないけど、残そうと思ったのは、消すのもめんどくせぇなとも同時に考えたからだ。

そんな自分のめんどくさがりを呪い、恥ずかしむと同時に、長所として、伸ばしてあげたいとも思う。

こうやって、自分にどんどん甘くなっていく。

高校生の自分のほうが、よっぽど、常識があるし、自制心もあっただろうなと思う。

自我すげぇ抑えてたなって、振り返ると思うよね。

今、自我すげぇ出しちゃってるから、なおさら思うんだよね。

高校のときとフリーターの今、精神的負荷で言うと、今のほうが楽なんだよね。

今、すごく楽だよ。「残高不足!」って、表示されても、しんどくないよ。

だって、「残高不足!」に関して言えば、今回が初めてじゃないしね。

今まで何回もあって慣れちゃってるっていうのもあるし、毎回、同じ方法で解決しちゃうからね。

別に変わった方法じゃないよ。

「親に通帳わたしといて、残高危なくなったら、電話して、「通帳見て。」と言って、翌日、翌々日には金が入ってる」

ね、別に変わってないよね。

今のところは、これで解決してるよ。借りるより、頂戴するほうが頼みにくいんだよね。

何故かって言うと、お金もらうことのほうが罪悪感があるからね。

困ってる(お金がない)本人は、深い意識の中では、「借りるより、貰う」を要求すると思うだよね。

でも、他の人が同じような状況に陥ったら、浅い意識で出た答えを信じちゃうのよ。

この場合で言うと、「借りる」ね。

浅い意識で出た答えは、理性から出た答えなわけ。

迷惑かけちゃいけないとかって類が理性なのよ。でも、深い意識から出た答えって、本能とか欲なわけ。

ここから、出た答えに従えば、平気で、罪悪感という壁を超えちゃうわけ。

まー超えた後、うしろめたさみたいなもんが、これまた、理性が出てきちゃうんだけど、まぁー一言でいえば葛藤だよね。

自分の常識を壊すのは、頭の良しあし関係ない

日常に変調をもたらすには非日常だ。

日常に不満がある人は、そんな日常に嫌気がさし、変えるべく非日常を求める。

それは、ある人にとったら環境を変えることかもしれないし、いじめっ子に反旗を翻すことかもしれない。

そうやって、「非日常プレイ」が出来た人から、自分が求めていた非日常にワープでき、「非日常プレイ」が出来なかった人は、既にある自分の日常という枠に収まったままである。

現状変えられないのは、自分を取り巻く環境のせいではないし、もっといえば、頭が悪いからでもありません。

単に、怖いから動けないだけである。

その怖さの元凶は、明確なものもあれば、怖がってる当事者も何に怯えてるかも分からないものもある。

どっちしろ、怖いという感情は、人間心理には一生ついて回ってくる。

ただ1つ言えるのは、怖いという感情を引き起こした事柄から、逃げれば、逃げるほど、怖いは消えないし、増幅する可能性だってある。

だから、抜本的な解決策は1つしかない。それは、今までと違うリアクションを取ること。

もっといえば、真逆のことをすること。

休みなく、働いてるのであれば、休むこと。自分だけ一生懸命働いていて、ほかの人たちがサボってて、不満があるんなら、自分がサボること。(不満がないなら、別に構わない。それは、その仕事好きなんだろね)

「お金に困ったら、自分で稼ぐ」という思考しか持ってない人は、親から金をもらうこと。

要は、日常に不満があるなら、その自分の日常を構築してる自分の常識だったり、思考だったり、行動を裏切らないとだめだからね。

苦しいのが、嫌ならよ。日常が楽しい、あるいは、苦しいことが好きならそれはそれでいいのよ。それは、苦しいのが好きですというドМプレイを楽しんでるところだから。

現にそういう人もいっぱいいるからね。男にいろんな性癖があるように。それは、しょうがないこと。

でも、基本的に、苦しいという感覚は嫌なはずなのよ。

だから、何度も書いてる通り、今までとは真逆の思考、行動をすればいいのよ。

当然、周りからは白い目で見られるよ。まぁ、そんなもん、大半が本人の錯覚だけどね。でも、言われることも、ままあるかもしれないけど、他人からの批判の矢が以前より多くなるってことは、真逆の思考、行動ができてきてる分かりやすいサインってことだからね。

そうやって、快適な非日常に移動していって、ゆくゆくは、快適で、満たされた日常に移行すれば、いいんじゃない。

今の、僕の日常は満たされてます。だから、非日常というカンフル剤は今は必要ありません。僕は今、世間体とか正しいとか正しくないっていう常識的な物差しはありません。自分の感覚で楽しい、楽しくない、楽か、楽じゃないかという物差しでしか行動していません。理由もなく、休みたいときは、ハッタリかけてでも休みます。

先日、「ハッタリ休み」という技を身に付けました。その背景には、同じ仕事を長時間やると自分の中に芽生える「だましだまし」という感覚をはじめて味わいました。

この感覚は、嫌なので、「ハッタリ休み」という技を身に付けました。

真逆をやるってこういうことだよ。

経済的な投資より心理的な投資をどれだけできるか

毎日、やりたいことだけして、やりたくないことはやめたら、良い気分になります。

それは、お金についても、同様に言えます。

欲しいものが高くても、お金を使って欲しいものを買えば、心地よくなれますし、逆に、どんなに安くても、本人が、心ときめかないものを買えば、気分が落ち込みます。

そして、往々にして、買った本人には、その自覚はありません。

あるのは、"安く買えた"という満足感だけです。そして、その満足感は、麻薬のような刺激なので、一瞬で終わります。

欲しいものは、どんなに高くても、買うこと

「欲しい!」と思ったものを、あなたは即、購入できますか?

買える方は、読まなくて、いいかもしれないです。買えない方だけ、読んでください。

僕が、「欲しい」と思ったものを、買ったほうがいいという理由に、先ほども書いたように、心地よくなるためと書きました。

ここで、欲しいものを買って、心地よさを感じたエピソードを紹介しよう。

二週間ほど前、生ごみのにおいに悩まされてました。

インターネットで調べたところ、夏は生ごみのにおいがきつくなるみたいです。

実家にいるときは分かりませんでしたが、少し考えれば、夏に生ごみのにおいがきつくなるのも想像がつきます。

そして、同時に、生ごみのにおいの解決法をインターネットで、引き続き調べました。

「出た生ごみをごみ収集日まで冷凍させる」とか「ごみ収集日まで生ごみネットに貯めておく」みたいな解決法がありましたが、どれもめんどくさいし、貯めておくという策に関していえば、結局、臭い思いがするから、意味ないなと感じました。

そんな中、生ごみ処理機で処理するという方法が載っていました。

簡単そうだし、めんどくさがりの私は、12000円の生ごみ処理機をアマゾンにて購入しました。

購入して、2週間経ちましたが、生ごみのにおいに悩まされることはありません。

12000円という身銭を切って、生ごみという悩みの種を摘めるわけですから、安いものです。

おそらく、生ごみ処理機を買って、ごみの量が減って、ゆくゆくは、12000円の元がとれるという効果が得られるかもしれませんが、そういう世間一般的な投資というものに興味がありません。

僕がやってるのは、心理的な投資だけです。生ごみ処理機を買ったのは、ストレス軽減への投資です。

自分の心地よさを確保するためには、欲しいなと思ったものは、極力買うようにしています。

それが、どんなに、自分の金銭感覚からして、高いなと感じるものであっても。

それもこれも、嫌なこと、やりたくないことに時間を費やすぐらいなら、好きなこと、やりたいことに時間を費やしたいから。

生ごみのにおいに悩んでる間に、好きなことができる時間がなくなっていきます。

ストレスとか悩みとか楽しみとか心地よさとかは目に見えないけど、どれだけ投資できるのかって重要じゃない?