怒ることの弊害

僕は、人に怒られるのは、嫌いだ。

怒られると、委縮して、自分のやりたいことが出来なくなる。

僕は、中学の頃、バスケ部に所属していたのだが、そこの顧問の先生は、ものすごく怖かった。試合の時は、もちろん、練習のときも、ことあるごとに怒鳴っている。怒鳴らなかった日なんてなかった。

また、大学入って、初めてのバイトが、某コンビニだった。そこは、親子3人で回してるフランチャイズのコンビニなのだが、ここでも、すごく怒られた。勤務中も、勤務終わった後も、怒られる。

二つの例から、分かる通り、僕は、怒られた経験がよくある。

今でも、たまに、人から、怒られることはあるが、なんど、怒られても、慣れない。

怒られた後は、その怒られた人にまた、怒られないように、行動する。

それも、主観的に正しいと思って、行動するんではなく、客観的(この場合、怒ってる本人)に正しいだろうと思って行動する。

人に、怒られるという状況が続くと、このように、主観と客観のバランスがくるってくる。

最初、主観6、客観4とすると、おこられることで、主観5、客観5、次また怒られると、主観4、客観6とどんどん自主性がなくなる。

こうやって、自主性がなくなっていく頃には、怒られることもなくなっているかもしれないが、それは、もうタダの奴隷だ。

奴隷に鞭打って、オイ働け。少し、言い過ぎたが、それでも、やはり、怒る側にも、しっかりこういう弊害が考えられるのだと、覚えておいてほしい。

度が過ぎる説教は、人の思考を奪う。そして、その人は、人の顔色を良く窺いながら生活していく。そして、そうやって、空気を読みすぎた結果、自分が、何をしたかったか忘れる。

だから、僕は、出来れば、怒られたくないし、怒りたくもない。

また、怒られる環境なら、勇気をもって、逃げ出すべきだ。