「好きなことはただやっている」という自然主義

好きなものに人は反応するように出来ている。

僕の場合で言うと、メッシのドリブルは美しいと思うし、じゃがいもは週四日で食べるぐらい好きだし、東京03のコントは笑いのツボだし、波瑠や満島ひかりがテレビに出てるとついつい見てしまう。

何故かは分からないが、反応してしまうもの、それが「好きなもの」の本質である。

その「好きなもの」は人それぞれ違う。

僕がメッシのドリブルは美しいと思ったからといって、他人はメッシのドリブルを美しいと思うとは限らない。

そもそもサッカーが嫌いかもしれない。そしたら、メッシのドリブルを見ても何も感じない。つまりは、反応しないということになる。

逆に、僕はなすびが嫌いなので反応しませんが、なすびが好きな人は反応する。

基本的に、「好き嫌い」というのは、生まれてすぐに確定され、変わらない。

たまに、自分の好きなもののプレゼンを他人に熱心にして、好きにさせようとする人がいるが、「好き」という感情は他人では植え付けることはできない。

なぜなら、「好き嫌い」という感情は、自分から発せられるものだから。(すべての感情すべてだが)

だから、自分の好きなもののすばらしさを他人にも分かってもらいたいなら、とりあえず一言

「○○やってみて!」

だけだ。

好きか嫌いかは、生まれてすぐには決まっているのだが、体感しないと、何が好きか何が嫌いかは自分では分からないのだ。(潜在意識では分かってるけど)

体感して始めて、じゃがいもは好きになり、なすびは嫌いになるわけだ。

基本的に、じゃがいもは好きなままだし、なすびは嫌いなままである。

しかし、「好き」という感情に、意味を持たせたり、条件を加えると嫌いになる可能性がある。

僕は料理も好きなのだが、それでお金を稼ごうとしたり、無理してまでうまくなろうとする気持ちはない。ましてや、自分の作ったじゃがいも料理をSNSにアップしようとも思わない。

もちろん、そうしたいと思ったら、そうする。

でも、「好き」という感情は野放しにしてたほうがうまくいくと思う。

うまくなろうとしなくても好きなら毎日、料理してしまうし、勝手にうまくなってしまうものだから。

好きなことはただやっている。それだけでいい。

好きなものをお金や仕事と結びつけるから、「努力は報われない!」っていう、不満が出てしまうんだよ。

そもそも好きでやってるんだから、努力とか報われる、報われないが出てくる時点で、おかしいのであって、ホントに好きでやっている人はただただ好きなことをやってるだけだからね。

だから、好きなことをやりたくないときはやらないし、疲れたらやめるもん。

好きという感情は自然だから、そのままにしておけばいいのだ。

邪な欲求を足せば(料理をブログでアップして、アクセス数をアップしたい、ブログで収益が欲しいとか)、自然さが失われる。生まれたばかりの子ウサギを人間が触ったら親から世話されなくなるように。

常識や理性に縛られれば、直感が鈍くなる

汚い部屋よりきれいな部屋がいいはずだし、

ほこりがついている鏡よりほこりがついてない鏡がいいはずだし

毛だらけの布団より毛もクルクルで除去して、干した布団がいいはず。

常識的に考えてそうであるのとは別に、「心地よくありたい」という面から見たら、後者のほうがいいと感じる人が多い。(汚いほうが心地よいという例外もあるけど)

あくまで統計の結果であって、僕は、綺麗な部屋や干した布団を推奨したいわけではない。

もっと深い「心地よくありたい」という欲に従うことを推奨したい。

「心地よさ」も人それぞれポイントがあり、それを五感でキャッチできるかが大切になってくる。

僕の場合でいうと、比較的綺麗な部屋であるという自負はあるもののそれでも、ブログ書いている最中、鏡のほこりを「不快」だと感じた。

そう、この「不快だと感じた」ことが重要で、そのあと、「不快」の元を除去するかはどうでもいいというか、何より一番は「反応」できたかだ。

「反応」という言葉は、「もやっと」とか「ワクワク」に言い換えてもいい。

何に「もやっと」と感じて、何に「ワクワク」と感じるかは、人それぞれだし、ましてやそういう「反応」に人が気づかないことも多い。

常識や理性に縛られてる人ほど、そういう人が多い。

なぜなら、頭が「反応」してるんじゃなくて、心や直感が「反応」してるから、頭中心で物事判断してる人ほど、「反応」に気づかない。

反応はするんだけど、常識や理性が瞬時に蓋をし、「反応」それ自体があったことを忘れてしまうのだ。

現代人は、ほとんどこのケースだと思う。

じゃあ、どうすれば、「心地よくありたい」状態を作れるのか。

「衣食住」と「三大欲求」だけにとりあえず焦点を当てて生活をしてみましょう。

そして、その中で、「不快」に感じたもの、「心地よく」感じたものを書き出しましょう。書かないと、「反応」なので、すぐ忘れて、頭はそれさえなかったものと処理してしまいます。

「着たい服を着ているか」「食べたいものを食べているか」「目覚めがいいか悪いか」

「ベッドは快適か」「机の上にほこりがついている気になるかならないか」

などなど挙げればキリがありません。

そういった質問を自分に問いかけてみてください。

何に「反応」し、何に「反応」しないかは人それぞれです。

反応すれば、自分らしくあるための材料が増えたことになります。

「不快」と感じたならば、取り除けばいいわけだし、「快」と感じたならば、増幅させればいいだけですから。

「お金がない」という現実がもたらすメリット

現実は、自分を映す鏡である。

自己啓発やスピリチュアル界隈では、常識化された説だと思う。

自己啓発やスピリチュアルに疎い私ですら、「現実は、自分を映す鏡である」を認識しているということは、ここ数年で爆発的に人気になったのか、この言葉が無意識、潜在的レベルで引っかかったのどちらかだろう。

おそらく、どちらも正解で、ここ最近、「現実は、自分を映す鏡である」を感じさせられた出来事が起こったので、書きたい。

「お金がない」という現実が教えてくれたこと

先月まで、お金がなくなると、僕の通帳を持つ母親に、「お金がないから、振り込んでほしい」という旨を伝え、お金を振り込んで貰っていた。

だから、お金がなくなるという感覚も知らなかったし、不安もなかったのだが、今月から、通帳を持つ母親の懐事情が変わったらしく、多くのお金を振り込めなくなった。

だから、以前のように

お金がない➡貰う➡お金がある

というループが出来なくなってしまった。

そこで、僕は、考えた。お金が貰えないということは、お金を出すのを制限しなければなりません。

ですが、我慢することはいけません。我慢すると精神的にネガティブな方向に、マイナス方向に進んでしまう。

だから、単に刺激を満たすためにお金を費やすことはやめることを試みました。

まず、以前は、一日二食食べていたのですが、一日一食に減らしました。

前までは、朝飯をパンで済ましていましたが、「本当に、毎日同じようなパンを食べたいか」と自分自身の直感に問いました。

その結果、自分の直感は、パンを食べることを許可しませんでした。

朝、パンを食べなくなったことで、とりあえず、空腹を満たすためだけに、お腹に何かを入れるという価値観が無くなりました。

それだけではなく、純粋に食べることの喜びが増えました。

一日一食しか食べないわけですから、その一食を慎重に選ばなければいけません。

今、食べたいものを思考し、直感して、毎日自炊し、食べています。

だから、必然的に料理のレパートリーも増え、料理もうまくなってると思います。

それは、そうです。

「とりあえず、空腹を満たすためだけ」の食事は、いつもの選択をしてしまい、食事も速くすまそうとしてしまいます。

一方、一日一食だけの食事は、食に対して喜びを求めようとするため、毎回違う料理を味わおうとします。

「空腹をみたすだけの食事」と「一日一食だけの食事」比べたら、広い意味では、食欲を満たすという意味では同じかもしれません。

でも、「空腹を満たすだけの食事」は刺激が欲しいだけの人にしか見えない。

夜中のポテチもファーストフードも空腹を満たすという刺激であり、潜在的にそれを欲しているかというとそうではないはずです。

潜在的に欲しているとは、本当にやりたいこと、本当に好きなことと言い換えていいでしょう。

「単に空腹を満たすための食事」より「ブログを書く」ほうが僕にとっての喜びです。

「      ””       」より「本当に食べたいものを食べる」ほうがいいはずです。

お金がないという現実は、刺激による選択を露わにし、直させる機会を与えてくれました。

お金に限りがあるとは悪いことばかりではないはずです。

お金に限りがあるということは本当にやりたいこと、好きなことにしかお金を出せないことを意味します。

そこで、刺激を満たすためだけの出費を見つけられたら、やめましょう。

やめたら、その分、好きなことに時間を費やせたり、ぽっと現れたりします。

僕の場合、一食減らしたおかげで、夜は、眠くならずにゆっくりブログを書いたり、読書に時間がさけるようになりました。

夢を否定し、日常を肯定する

ラジオを聴くのが日課だ。

おぎやはぎのラジオも毎週木曜日マストで聴いている。

彼らのトークは、脱力で始まり、脱力で終わるし、人々の役立つような情報を話さない。

つまり、意味のあることは話さず、無意味なことしか話さない。

ここまで書いて、「脱力、無意味」など彼らを表すワードを書いたが、彼らをディスってる訳ではない。

むしろ、「脱力で、無意味である」ことは、彼らの強みであり、芸人としての強みでもある。

まぁ、おぎやはぎに関するブログは今後、機会があれば、書くとして、先週の木曜日のおぎやはぎのラジオで、おぎやはぎの10周年ラジオライブのことをオープニングで話していた。

そのライブに、森山直太朗が出て、「桜」を歌ったらしいのだが、矢作は歌を聴いて、「金を稼げる声ってやっぱ違うね~」とラジオで話していた。

僕にとって、無意味の体言者であるおぎやはぎから始めて、意味のある言葉を勝手に受け取った。単に、感想を言ったまでだと思うが、僕は、彼らから始めて意味を受け取ったから、この言葉を掘っていきたい。

夢ではなく、ただ得意なことをやっただけ

森山直太朗にとって、歌手は夢ではなかった。

彼が、テレビで言っていたが、高校生ぐらいまでは、カラオケに行っても、進んで歌わなかったと自身のエピソードを話していた。

そこから、プロになっていくまでの話は忘れたが、恐らく、彼自身、歌うことはそこまで好きではなかったのではないかと推測される。

かといって、嫌いでもなかったはず。好き嫌いという感情の尺度で測れば、ただ中庸、フラットであり、しかし、ものすごく歌うことが向いていたはずである。

歌手になることが大勢の人にとっては夢である一方、彼にとって、その夢は日常に、仕事に落とし込めるのだ。

これでも分かる通り、好き嫌いは、向き不向きに関係ない。「好きだから、向いている」「嫌いだから、向いていない」という方程式も成り立たない。

だから、お金を稼ぐという側面だけに焦点を当てたいなら、「向いているか向いてないか」を考えればいい。

また、向いてないことは趣味としてやればいい。お笑いも、料理も、映画を見ることも、向いてないけど、自分を豊かにするために、向いてないことも効力を発揮してくれる。くれぐれも、向いてないことを追い続けることを、夢を追うことと言い換え、いつまでも戯言を言うことは痛々しい。

その夢みたいなものは、趣味で留めておいて、他の自分にとって簡単にできるもので稼ぎながら、趣味に没頭しなさい。

直太朗にとって、当たり前に歌うことがうまいように、あなたにとって、他の人には難しいけど、簡単にできることがあるから、それを見つけよう。

夢を否定し、日常を肯定しろ!

叶えたかった「夢」はないし、「夢」を叶える前にちゃんと考えて

(ここに「夢と挫折」について書いてください)

僕が、保育所に通ってた時、放課後、母親を待っている間、小さなグラウンドでバスケットボールを暇つぶしに地面についていました。

地面にボールをつき、手元に戻ってきたものをまたつくの繰り返し。

要は、簡単なドリブルである。保育所のとき、余りにも暇だったから、各々、大人から見たらしょうもないもので時間を潰すのだ。

砂場遊びも、遊具遊びも、ザリガニ戯れも、ボールつきと大差なくしょうもない。

そのしょうもないボールつきを毎日、やっていたのだが、ある日、とんでもなくボールつきが続く日があった。

いつもは、長くて10分ぐらいしか続かなかったのだが、その日は、放課後始まってすぐつき始め、母親が向かいに来ても、なお続き、結果的にボールがどこか飛んでいくまで母親を待たせる形になってしまった。

当時の体感としては、二時間ぐらいボールつきをしていたと思う。

その二時間、僕はものすごく気持ちよかった。何が気持ちよかったかというと、二時間ボールをつけたこと自体に対してもそうだし、その間、自分に大勢の関心を向けられたことに対してもそうだし、知らない子や先生にも終わったあと、褒められたことも気持ちよかった。

ふと、保育所のときのことを思い出した。ここで、ブログをアップしたら、単なる自慢話で終わってしまう。

僕は、自慢話を伝えたかったわけではなくて、このときを思い出したときに思ったのが、多くの人が持っている「夢」というものを叶えたとき、僕の幼少期の感動を超えるかという疑いだ。

ただただ、ボールをついた。それは「夢」とか「目標」とかという大層な言葉ではない。

ただ、「今」楽しむために、ボールをついている。

そしたら、たまたま、「結果」がついてきただけだ。(褒められる、関心の目)

最初から、「結果」を追い求めて、ボールをついていたわけではないはずだ。

保育園児の自分だから、そんな大人的な考えができるわけがない。

もし、その発想があったとしたら、「二時間」という記録にも到達していないだろうし、到達したとしても、記憶に残らないと思う。

なぜなら、保育所のときの記憶なんかみんなほとんど残っていないからだ。

残る記憶は、ある瞬間で、熱を注いだものだけである。

保育所のときしたあらゆる我慢や練習や努力は消える。

それは、将来大人になったときに、困らないための施しだったから。

一方、刹那に、今に、「熱中」したものは、不思議と記憶から消えないのだ。

思い出せるけど、大人になると、子供のときの感覚を忘れてしまう。

「夢」とか「目標」という言葉が目立ち、嫌でも、意識してしまう。

そうなるとその「夢」とか「目標」という結果が出るまでのあいだ、我慢や努力という苦しみを伴うはめとなる。

それは、おかしい。未来のために行動することが正しいみたいな風潮があるが、考えてみてほしい。

僕たちは、「今」を生きてるんだよ。

だから、まず、「夢」を設定してというのが、おかしい。逆でしょ。

普通、「今」を考えるはずじゃない?

(今)やりたいこと

(今)やりたくないこと

(今)好きなこと

(今)嫌いなこと

を考えればいいだけであって、それ以外、なにもいらない。そしたら、「夢」とか「目標」とかっていう結果もあなたに届くんじゃない。

だって、未来は、「今」の連続で作られてるんだから。

というか、「今」楽しいんだから、夢かなえるとかってどうでもいいんだよね。
Netflix火花お題「夢と挫折」

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買いたいものを買うことと食べたいものを食べることで勘違いしてほしくないこと

人には「浅い欲」と「深い欲」がある。

というより「単に欠落感を満たすための欲」と「各々の本質的な欲」といいましょうか。

構造的には、「深い欲」の上に、「浅い欲」が覆っているイメージである。

よりよい方向に導きたいなら、「深い欲」に従ったほうがいい。

なにをより良い方向に導くのかというと、それは「全部」である。

気分が軽いとか心地よさといった心理的効果をもたらし、はたまた心理的な健全は、病気もしにくくなる。(病は気から)

最初は、心理的側面、要は、目に見えないところが良い方向に向かい、後々は、目に見えるものが良くなったり、もたらされたりする。

「収入が増えた」とか「友達が増えた」とか「恋人ができた」とかである。

要は、世間では、「結果」と呼ばれるものがもらえる。

まぁ、これも個人差があって、「結果」がついてくるのが、速い人もいれば、遅い人もいるから、「結果」は気にしなくていいというのが、僕個人としての意見だが...。

まぁ、要は、「深い欲」に従ったほうがいいよってことなんだけど、なんで、「浅い欲」に従ってはいけないのか、はたまた、「浅い欲」「深い欲」について、具体的に書きたい。

「衝動買いする人」=「浅い欲を満たす人」

近所によく見かける親子がいる。

その親子を見るたび、両手にファッションブランドやコスメブランドと思しき紙袋をぶら下げている。

大げさではなく、毎度毎度、両手いっぱいに持っている。

その現象、少し考えてみたい。

「毎度毎度、両手いっぱいに持っている」ということは、結果的には、買い物に満足していないことを意味する。

満足してたら、毎度毎度、紙袋いっぱいにする必要はないから。モデルや女優なら、話は違うかもしれないけど、お世辞にも、そうは見えなかった。

ということは、服やコスメを買うことで、一時的な豊かさを感じている可能性がある。

服を買うことは、豊かさと直結しているのだ。まぁ、それで終わればいいのだが、ずっとぼくが「両手に紙袋ファミリー」をいまだに見るということは、あくまで、買い物による、豊かさは刹那であることがわかる。

「目に見えるもの=充足感」という勘違いから抜け出さない限り、この親子は、一生、「両手に紙袋ファミリー」として、存在する。

「目に見えないもの(感情や心地よさ)=充足感」という思い込みになって始めて、過剰な買い物をしなくなるはずだ。

「両手に紙袋ファミリー」も、服を買って、買ったことによるその服への満足感得ようとしてるんだと思うんだけど、満足感なら服を買うこと以外でも得られるよね。

この親子の場合、買い物が単なる刺激になっちゃってるのよ。買いたいものを買うことはいいことなのよ。

でも、単に刺激を味わうための買い物と買いたいものを買う買い物は別物だよ。

分かってると思うけど、前者は「浅い欲」で、後者は「深い欲」だよ。

「浅い欲」を消して、「深い欲」で過ごすコツ

ぼくは、刺激が引き金となる「浅い欲」がないと思っていたのだが、とあるきっかけで、それが見つかった。

それは、「一日一食」を始めたことによる、「浅い欲」の発見だ。

一週間前まで、「一日二食」で、朝に買ってきたパンを食べ、夜に自炊して食べていた。

今は、昼の二時頃に、スーパーで食材を買ってきて、調理し、食べての、その一食だけである。

その生活を一週間続けて思ったのが、一週間前まで食べ続けていたパンは、単に、食欲を満たすためだけに食べていたのではないか。

ホントにパンを食べたくて、食べたのではなく、「朝食べるのが常識」という社会通念に単に従って、食べたのではないのかという疑惑である。

なぜなら、パン食の期間は、同じパンばかり買っていたし、食べているとき満足していたかというと、惰性たべているイメージが頭に残る。

逆に、今は一食ではあるが、しっかり食べたいものを食べている。

単に、食欲や空腹を満たすためだけに食べてない。それは、刺激や惰性による飲食である。

今は、自分の直観や思考に問いかけ、「今日は何を食べたい」かを紙に書いている。

また、「一日一食」にしたことで、時間が出来、趣味に時間を費やすくなった。

だから、今、のんびり、ブログを書けてるし、これから、ブログ更新の頻度が増えるかもね。

他人の期待じゃなくて、自分の期待に応えなさい

11月末で今しているバイトを辞める。(モスバーガーと銭湯)

その後は、短期のリゾートのバイトをする。(1~2ヶ月)

ここまでは、決定事項だ。バイトを辞めることもはたまた新しいバイトを始めることも仕事ができるできないとは関係ない。

単に、勇気の有無である。現に、今まで自分の意志でバイトを辞めてきた。

どのバイトも長く続いたが、続けてくると必然的に出てくる仕事への飽きが原因でしか辞めてない。

体力的にも精神的にももう無理だと思ったのは、引っ越し屋のバイトだけで、それはすぐに辞めた。

それ以外は、総じて楽だった。コンビニもスーパーの品出しも今しているモスバーガーも銭湯も楽だ。

楽しいかと問われれば、クエスションだが、苦しいかと問われれば、完全にノーである。

年経てば、経つほど、仕事に対して、苦しいという感覚は薄まってきた。それは、仕事に対するスタンスが、徐々に変化したからだと思う。

バイトを始めた当初は、偉い人が定めた仕事に対する答えに満たすように、働かないとダメだと思い込んでいた。

でも、バイトしてて、他の人見てて、気づいた。

バイト中に、スマホいじるためにトイレに頻繁に行くやつでも、客がいるのに、バイト連中が、デカい声で雑談してるやつでも、平気にバイト先には、いると気づかされた。

その当時、いい加減な連中だと思い込んでた連中は、「偉い人が定めた仕事に対する答えを満たすように働く」という僕の価値観を、いい意味でひっくり返してくれた。

スマホはいじるけど、自分のできる範囲で仕事はするし、雑談はしてるけど、手あしはしっかり動かしてる。

この人たちは、他人が定めた仕事に対する答えを満たすように、そもそも仕事していない。

自分が今日できることだけしているというそもそも当時ぼくが持っていた仕事観とは、反対の仕事観を持っていた。

これは、大げさではなく、人生で行動するための大きな指針となった。

要は、他人を慮ることを拒否し、できるだけ自分の軸だけで行動しようとした。

これは、大きな変化だ。まず、行動する上での、速度が上がった。

バイトを辞めるときも、普通の人なら他人に迷惑をかけるという意識が出て、辞めるのが遅れたり、はたまた、嫌々ながら続けることになってしまうかもしれない。

僕の場合は、他人に迷惑をかけるという思いを無視します。僕も、人間ですから、その思いというのは浮上し、見えはしますけど、遮断します。

その代り、一番、自分にとって大事な決断はできます。それは、「バイトを辞める」という行為です。「辞めたい」と直感という自分の心からの叫びを感知したら、その流れにのれる。要は、「バイトを辞める」にたどり着けます。

 

 

だから、なんだっけ。11月末で今のバイトを辞めることは決定してて、それで、なんだっけ。

思い出した。11月末まで、変わり映えのない日常を送る可能性が大きいなということ。

経済力は、現状どおり、恋人はおらぬまま。それで今現在、不幸かと言われれば、60%ぐらい幸せというのが妥当だろう。

だって、本読めるし、ランニングできるし、料理できるし、映画見れるしって、今、自分が持ってるもので、幸福感はある程度は作れてるからね。

11月末まで、先挙げた物質的な幸せは来ないと思っておいたほうがいい。

現時点で、そんなもん期待してないんだけど、まぁ、改めて確認の意味でね。

だから、より一層、今持ってるもので、日常を自分がしたい色に彩るかが重要なはず。

本やランニングや料理や映画やに加えてなんかということだ。今、自分に与えられたもので、自分を幸せできるもののパイを増やすことは、11月末まで想定内の日常を送る僕にできるもう一つのバイトかもしれない。