不便のメリット

『便利なものと不便なものどちらがいいですか?』という抽象的な質問を100人に聞いたら、たぶん9割は便利なものと答えるだろう。残りの1割は便利のメリットより不便のメリットのほうがいいと感じてる人たちだろう。後は、便利と不便の意味を反対に覚えたびっくり人間か、単なるあまのじゃくかのどっちかだろう。でも、今はこういう人たちは除外して不便のメリットについて考えたい。なぜなら、僕も身の回りが便利過ぎて逆に不便に感じることが多くなってきたのだ。この文を読んだ人(昨日までのアクセス数:4人)は文が矛盾で理解できないとは思うが、今日のブログを読み終えたら、理解していただけるようにしたい。なので今から僕なりに不便のメリットについていくつか例を挙げながら説明したいと思う。一つ目は、情報を受け取る手段。最初は新聞などの活字が中心で、そこからラジオ、テレビと情報を受け取る手段が進歩した。これで何が困るかと言うと、進歩するにしたがって、考えることが必要なくなってくるのだ。「風鈴が鳴っている」という文章がある。活字で「風鈴が鳴っている」という情報を受け取った場合、風鈴の絵を思い浮かべる人もいれば、音を思い浮かべる人もいるだろう。絵を思い浮かべるときも、音を思い浮かべるもしっかり頭が使えている。脳が風鈴を視覚化しようと、聴覚化しようと働いてくれるのだ。これって、テレビとかスマホとかだと「風鈴が鳴っている」が絵になってるし、音にもなってるから、脳の機能を駆使しなくていいのだ。ジグゾーパズルにたとえると、前者は3/1完成されてる状態で、後者は完成されている状態だ。でも、まぁ、これを書いても腑に落ちてくれる人もいないだろうとは思うんだけど、個人的には、困ってしまう。芸人さんのラジオのネタコーナーなどに送るときどうしても自分の想像力、妄想力、変態性の無さに愕然とする。芸人さんのラジオにネタを送る人は偏見だとは思うが、こいつ変態だろという人が多い。たぶん、深夜ラジオを聴く人たちはいろんな意味で満たされてない状態だからだと思う。満たされてないから想像しようと、妄想しようとできるのだ。クリエイティブな仕事をしようとする人は満たされすぎるのも良くないと思う。活字だといろんな想像ができる。テレビだと限定されたものが目の前に現れてしまうからその枠を超えるようなものを考えられなくなる。あとこれは抽象的になってしまうが、便利に頼りすぎるとちょっとした理不尽にもストレスを感じてしまうんじゃないかと思う。ほとんどの人にとって本当にしたいことを達成するためには、理不尽や失敗は避けては通れない。今みたいに便利だと失敗や理不尽で目標や夢をあきらめても、ある程度は幸福度を感じることができる。ただ、ある程度だけだ。どこかに心残りはある。本当にほしいものはもっと遠くにあるのに、近くに楽しいものがあると受け取ってしまう。なんか、本題からずれちゃった。推敲するのも怖いから、そのままアップ。