好きなことと惰性でやってること
誰しも、好きなことの1つや2つあるとは思う。
僕の場合で言うと、音楽を聴く、リフティングする、ラジオ聞く、ただ歩く、読書、ネットサーフィン、youtubeのだら見とかいろいろある。
この中でも、好きだが、惰性(癖)でやっているものがある。
特に、音楽を聴く、ラジオを聴く、ネットサーフィン、youtubeのだら見。
特に、この3つは、自分の中で、惰性でやってしまうみたいだ。
例えば、外を歩くとする。
僕は、ただ、外を歩きたい。そう思って、家を出るのだが、音楽やラジオのデータが入ったスマホと、イヤホンまで、持って行ってしまう。
そうすると、歩くには、歩くのだが、音楽やラジオを聴きながらということになる。
つまり、歩きながら、音楽を聴くことによって、純粋に歩くという行為、音楽やラジオを聴くという行為が出来なくなる。
僕は、歩きたい。だけど、同時に、音楽やラジオを聴きたいと思う。
どっちか、優先させれば、いい話なのだが、難しいのだ。
それは、そうする理由があるからだ。
「歩く」のが好きな理由
歩きたいから歩く。
なぜか?
僕にとって、「気持ちがいい」から。「気持ちがいい状態」に持っていけるから。
好きなことをやっていると、時折、「気持ちがいい」「心地よい」という状態になる。
これは、僕だけではなく、みんなもそう。
ちょっとでも、気分がすぐれないとか嫌なことあったとか精神的に参ってるという時は、歩けば、だいたい、治る。
精神が-の状態でも、+の状態に持っていける魔法のような行為。
それが、僕にとって、歩くという行為だ。
その他に、歩く理由はなんだろうか?
たぶん、何かの問題を解決するために、歩くんだと思う。
「たぶん」とつけているのは、自分でも、よく分からなくて、漠然とした、何かが、怖くて、歩いてる。ほんとに、よくわからない。
歩いてる理由も、たぶん、その漠然とした、問題を解決したくて、歩いてるのもある。
「歩きたいから歩いてる」プラスα「漠然とした、問題への解決」。
その漠然とした、問題への解決は、純粋に歩くという行為をしてるときがスムーズに行われる。
つまり、音楽やラジオを聴きながらではなく、「歩く」という行為へ没頭してるときに、問題を数多く発見し、解決することができる。
音楽やラジオを聴きながらだとどうしても、そちらに脳の割合が多くなる。
それは、音楽やラジオのほうが、好きという意味ではなく、そちらのほうが、刺激というか、ノイズ、情報量が多くなるからだ。静か動かで言えば、音楽やラジオは動。歩くは静だと思う。
そりゃあ、動いてるほうに、目も脳も行くよね。
だから、「漠然とした、問題への解決」をするためにも、音楽やラジオを聴きながらというのは、やめたほうがいい。歩くが惰性になったら、元も子もない。
新たな気づきや発想は、歩いてるときに出るから、僕は、純粋に歩くべき。