全員が幸せになりたいと思ってるのに、一握りしか幸せになれない理由
「やりたいことだけやって
やりたくないことはやめる」
という考え方は世間に知れ渡っているし、僕もそれは正しいと信じている。
というより、「幸せ」という枠組みだけで考えれば、自分が信じる以前に真理であり、「僕は男である」と同じレベルで当たり前なのである。
でも、この法則通りに、動けてる人なんて、全体の一割に満たない程度だと思う。
なぜ、「やりたいことだけやって、やりたくないことはやめる」を実践すれば、幸せになれると潜在的には分かっているのに、できないのか、やらないのか?
それは、頭(思考)で物事を判断しているからだ。
どういうことかというと、例えば、今の会社に不満があって、他にやりたいことがあるが、今の会社に居続けてる人はいると思う。
居続けてる人の思考回路は、
「家族を養っていくために(やりたいことはできないの!)」
「やめたら、他の人に迷惑をかけるから(だから、会社を辞めたいけどやめれないんです)」
「給料がなくなったら、生活できなくなります(だから、嫌だけど、我慢して働いています)」
という言い訳をして、会社なら会社にいる自分を正当化しようとしているのだ。
でも、それは、単に頭(思考)だけを腑に落とさせようとしているだけだ。
それでは、「身体性」が伴わないし、もっといえば、「身体」が腑に落ちていない状態なのだ。
だから、頭(思考)の声を無視して、心(直感)に身を委ねることが大切なのだ。
心(直感)に身を委ねると聞くと、スピリチュアルな感じがして、「そんなの信じないぞ!」と身構える人もいると思うが、そんな難しいものではない。
単に、「楽しいor楽しくないか」で物事を判断するだけである。
我慢して、働いてるなら、やめればいいし、他にやりたいことがあるんなら、それをやればいい。
もし、会社をやめて、やりたいことをやれれば、相対的な結果が出るかは、分からないが、「身体性」は伴うはずだ。
楽しければ、「身体」はその方向に動いてくれるし、仮に、思考の堂々巡りの結果、それが正しくても、楽しくなければ、「身体」は能動的には動いてくれない。
「楽しい」という感情も、「心地よい、気持ちいい」という感覚も、すべて「身体」から発せられるものである。
だから、感情も感覚を無視することは、「身体」を無視することを意味する。
逆に、感情や感覚を感じきって、それに従えば、途端に「身体性」が伴う。
しかし、それは、思考すれば、正しくないと判断されるかもしれないが、無視してほしい。
「やりたいことだけやって、やりたくないことはやめる」なんていうのは、正しくないことのほうがほとんどで、正しくはないけど、楽しいのだ。
しかも、正しいか正しくないかなんて元々は他人が定めたものであって、それも、時代によって、何が正しいか正しくないかなんて変遷するのだ。
あと、「やりたいことや好きなこと」に理由を求めることはやめたほうがいい。
やりたい理由を見つけようとした瞬間、思考を使うから、これで稼げるかとか仕事になるかという打算が入るからだ。
本来、好きなものとかやりたいことというのは、無条件であり、無条件でなければならない。
逆に、好きなものややりたいことに、根拠があればあるほど、途端に嘘っぽくなる。
というより、好きじゃなくなる。好きなあの子が好きだから、自分も好きになって、あの子と共通項を作ろうなんていうのはただ打算であり、好きという感情は、そんな打算や外から強制されて持つようなものではない。
いつだって、好きという感情は内側から湧いてくるものだし、そこに好きな理由なんてなかったし、無意味無邪気無条件だった。
だから、最後言えることは、心(直感)に従いましょうということ。
そして、心に従うものには、常識、嫉妬、お金がなくなる、論理的に見て正しくないとかといった向かい風が吹いてくることを肝に銘じ、それに負けじと、心が示したルートを進もう。