自分の中の「子供」を大切にする
今しているバイトも11月いっぱいで辞める。(モスバーガーと銭湯)
12月から3ヶ月新潟へリゾートのバイトをする。
とりあえず、3月末までは予定が決まっている状態で、今するべきことは、今しているバイトを11月まで、休まず行くこと。
11月まで行けば、その後行かなくていいわけだから、とりあえず、休まないことを心がける。
休まないと言うと、どうしても疲れても、頑張って職場に行くという世間的なイメージがあるけど、僕のイメージしている「休まない」は世間のイメージとずれている。
なんというか僕のは、もっと子供っぽい。
「がんばらない、できないことはできないと表明する、疲れない、サボる、できることだけする、頼る、任せる」
こういう風に箇条書きしてみると、やっぱり子供っぽい。
子供っぽくなればなるほど、心が豊かになるし、現実も緩やかに豊かになると信じている。
ただ、子供っぽさは、常識ではない。非常識だ。
だからといって、非常識が間違っているわけではない。
そもそも、社会に正しいとか正しくないという概念はない。
あったとしても、一時的な正誤であって、幻想だと思ってくれたらそれでいい。
ただ単に、子供っぽさは今の時代は非常識であるというだけであり、10年後、20年後は常識となってるかもしれない。
そして、なぜ、子供っぽさは非常識かというと、愚直に子供っぽさをしていけば分かると思うし、想像力を働かせればわかると思う。
例えば、できないことをできないと表明するとする。
まず、表明する側の心理として、できない=恥であるという考えを持っているため、他人に表明したら、恥ずかしいし、仕事ができない奴ではないかと思われるのではかと思ってしまう。特に、会社の中で、ある程度仕事ができるキャラとして通っているとしたら尚更、できないという表明はしづらくなる。
だから、もう早いうちに、これできない、あれわからないと言ってしまったほうが楽なのだ。できる仮面を外せば、愛想つかされたり、嫌われたりするかもしれないけど、それで離れるなら所詮、仕事ができる、できないで判断してたやつだから、遅かれ早かれそうなる。
このように、子供っぽさを体言すれば、リスクが発生する。
どういうリスクかというと
「嫌われる、失望される、愛想つかさる、無視される、陰口・悪口叩かれる、仕事ができない奴と思われる」
こういうマイナスを背負う可能性がある。
でも、子供っぽさをこれらのマイナスを覚悟して行えば、楽しいという感覚が味わえる。
あなたが現実を変えればいいし、あなた=現実になればいい(食欲編)
「今の現実に不満があるなら、
あなたが現実を変えればいいし、
あなた=現実になればいい」
今見ている現実、今まで見てきた現実が全てではない。
あなたの思考・感情・行動パターンを180度変えれば、180度違った現実がそこにあるだけ。
義務(~するべき)の価値観の人には、ちゃんと義務が与えられる。
逆に、欲求(~したい)の価値観の人には、やりたいことだらけの現実が与えられる。
よくある、「やりたいことがわからない」とか「やりたいことがない」という人は、欲求より義務を優先させて生きてきたため、自分の周りに「義務」だけがあって、やりたいことがないように思ってしまう。
実際に、欲求がないことなんていうのは、あり得なく、単に見えなくなっているだけである。
その見えなくなった欲求を見えるようにするには、はたまた、自分の周りをやりたいことや好きなことだらけするにはどうすればいいか。
それは、簡単。ミクロで、低次な欲求から順に満たしていってあげること
例えば、食欲。食べたいものを食べているか。惰性や習慣で食事を済ませていないか。
一日三食が食べないといけないと思っていないか。なんで、そう思ってるの。三食食べないとお腹が減ると思い込んでない。一回でも、意図的に、一日二食、一食に減らしたことある。ないなら、一回でもいいから試してみて。
少しの断食でも効果があるから。一食抜いたことで、他の自分の好きなことに時間を回せるし、胃の中に何も入ってないのも気持ちいいよ。
それは、常に、胃の中に何かが入ってる人には、分からない感覚だと思う。
そういう人は、「何を食べたいか」「好きか嫌いか」の感覚が鈍っている。
なぜなら、基本が胃の中に何かが入っている状態なので、食べてから、少し時間が経ち、胃の中に空白ができたら、「お腹が減った」と思い、とりあえず、食事をとってしまっている。
おそらく、「お腹が減っている」状態を、悪いことだと思ってる節がある。
だから、過剰に食事をとるわけだし、胃の中が常に満たされてる状態をキープしようとするわけ。
よくよく考えてみて、胃の中が常に満たされてる状態って、異常なんだよ。
両手に荷物を持てば、その荷物に、少なからず意識を持っていかれる訳で、胃の中が満たされてるってことは、胃を意識し、かばいながら行動するわけだよ。
荷物持ちながら、仕事してたり、映画見たり、本読んだりしてたら、100%でそれに集中できないよね。
胃の中が常に満たされている状態は、まさにそういうこと。
僕の場合で言えば、胃の中に何か入ってないと落ち着かない時期があって、その時は、読書やブログといった多少の労力がいる好きなことをしているとき、眠くなって来たり、不意に横になりたくなるときがあって、それらに時間を割けないことが多々あった。
一日二食、一食にしった結果、好きなことややりたいことに時間を割けるようになったし、なにより、食べることの喜びが再確認できた。
欲求の純度を上げること
「着たい服を着ているか?」
「食べたいものを食べているか?」
「やりたいことをやっているか?」
「いいたいことをいっているか?」
こういうことしか最近、考えてない。
「着たい服を着ているか?」と問われれば、
「一週間に一回は着ている」と答える。
ということは、ほとんどの日は、着たくない服、もしくは、今まで惰性で着てきた服を着ていることになる。
だから、「毎日、着たい服を着れるように」意識し、今日から過ごさなければならない。
一週間が二日に、三日にと、着たい服が着れるようになれば、欲求の純度も上がっていく。
そうすれば、日常の中で、豊かさを実感することができるはずだ。
ただ、「毎日、着たい服を着る」を意識する上で、注意しなければいけないのは、無理に欲求の純度を上げることである。
一週間に一回から、いきなり毎日まで、ジャンプできるならいいが、ほとんどの人は身の丈にあっておらず、無理な行為になる。
無理な行為というのは、収入のほとんどを洋服代につぎ込んだり、借金してまで、洋服を買うことである。
じゃあどうすればいいか、自分のできる範囲で、地味に、丁寧に、着実に欲求の純度を上げること。
一週間に一日なら、一週間に二日にすることは、ほとんどの人が無理しない範囲内だと思う。
洋服代稼ぐために、少しぐらい余分に働いたり、娯楽費を少し削れば、洋服代もまかなえるだろう。
そうやって、着たい服だけでなく、あらゆる欲求の純度を上げることは、毎日の、日常の中でやっていけば、日常の中で豊かさに気づける。
豊かさが「ない」のではなく、「ある」ということに.....。
それに気づくために、最初に書いた四つの文を意識し、行動する。
そして、四つの文は、いつも「~すべき」という文の邪魔にあう。
「どうしたいか?」と「どうすべきか?」という狭間で生きているのが、我々人間なのだ。
「会社が終わったら、すぐ帰りたい」と「会社が終わっても、みんな残業しているから、残業すべきか」みたいな選択に迫られ、ほとんどの人は、「どうすべきか?」を選択する。
なぜか?
それは、波風立てたくないからか、怒られたくないからか、今までと違う選択をして、自分の今の状態、例えば、「20」だとして、「0」に落ちることが怖いからだろうか。
でも、「0」に落ちるとも限らなくないか?「50」や「100」の状態まで上がれる可能性だってある。
メリットよりデメリット
希望より不安
プラスよりマイナス
にフォーカスし、意識してしまうのも、人間、みなそうだよ。
「起業したいけど、今の会社を辞めたら、収入がなくなるから、起業できません」
「フラれるのが怖いから、告白できません」
という二つの悩みは、根っこは同じである。その上で、自分の欲求を叶えてあげれるか。
もっといえば、マイナスを受け入れる覚悟、玉砕される覚悟を持てば、欲求に対して、力みもなくなる。
体操選手が一回目に失敗したから、二回目は開き直って演技しました的なもので、それを、ずっと、精神的に開きぱなししておけば、スムーズに欲に入り込める。
あなたの今の現実と感情はみそ汁で分かります
進みたいところへ進むための嘘は嘘ではない。
浅いところでは、嘘をついてるけど、深いところ、つまり、感情は嘘をついていない。
「バイトを辞めたい」という思いがあるなら、嘘をついてでもやめるべき。
本当のことを言って、バイトや仕事を辞めてもいいけど、その理由が、自分が上司だったら肯けないと想像できるなら、本当の理由なんてどうでもいい。
本当の本当だけを実現できれば、感情に従えてることになるから。(バイトを辞めたい)
感情に逆らわなければ、病気もしないし、ポジティブでいられる。
無理に、病気を予防しなくても、病気はしないし、ポジティブ思考でいられるトレーニングをしなくたって、自然にポジティブな状態だ。
なぜなら、感情に従うとは、やりたくないことはやらず、やりたいことだけやっている状態だから。
擬音語で言えば、「ワクワク」と「ワサワサ」を感じ切り、「ワクワク」に従い、「ワサワサ」はやめればいい。
僕の場合は、なすびは嫌いだから、「ワサワサ」するけど、じゃがいもは好きだから、「ワクワク」する。
素直に「ワサワサ」を感じたなら、拒否して、「ワクワク」を感じたなら、受け入れればいい。
そうやって、日常を「ワクワク」だけで埋めていけば、感情は充足され、現実も良い方向に変わる。
なぜ、感情が満たされれば、現実が変わるのかは、なんとなくしか今は分からないけど、感情が欠乏してる状態の人が、現実を変える力を持ってるとは考えにくい。
単純に、ニコニコしてる人には、人が集まるし、精神が病んでる人には、人は寄ってこない。
だからといって、ニコニコしてる人の真似を表面的に、目に見えてる所だけ真似たところで、感情が下向きになってる人は、人を集める求心力は持ちえないし、感情も上向きにはならない。
元々、笑顔じゃない人が、笑顔をしたところで、「したくねぇよ!」と思ってるなら、何の得もない。なんなら、その「したくねぇよ!」に従ったほうが、感情を感じ取ってることになるから、現実が自分通りになっていくはずだ。
嘘の笑顔なんて、ほとんどの人が、なんとなく察知して、その顔をした人の所には近づかない。
逆に、感情に同化した身体の人には求心力がある。
「やりたくないけど、やらなければならないからやっている」状態は、感情を無視していて、感情と身体が同化してるとは言いがたい。
感情と身体はイコールにならないと、現実も変わってくれない。
目に見えてるもの、つまり、現実は、目に見えないもの、つまり、感情によって支配されてるといって、過言ではない。
感情はみそ汁で言えば、だしであり、現実は、具材だ。
だしさえしっかりしていれば、具材が少なくても最低限のうまみは確保されてるから、その安心感で現実を変えるために、体感や行動ができる。
自分が見てる現実はただ単に、感情や思考の結果だから。感情に従ったいけば、遅かれ早かれ、見たい現実はそこにあって、感情と相反すれば、見たくない現実があるというシンプルな仕組み。
だから、能力があって、頭がよかったとしても、感情を無視すれば、誰かがどれだけ羨む現実、結果を出せていても、当の本人は、満足しないし、現実もいずれ下降するだけ。
能力も、頭のよさもただの具材だから、具材がいくら高級でも、だしが貧困なら、みそ汁おいしくない。
逆に、不器用で、頭が悪くても、感情を感じきれば、相対的な幸せはどうであれ、絶対的な幸せは保証されている。
つまり、最低限のみそ汁の味は保証されている。
欲しい現実は求めなくても、勝手に向こうから来る
「衣食住」と「三大欲求」と「いいたいこと・やりたいこと(本音・本望)」を満たすことは、自分の幸せと直結する。
「食べたいものを食べてるか?」
「着たい服を着てるか?」
「やりたいことをやっているか?」
などと自分の心に問いかけて、全てに「はい」と答えられようになれれば、自分が気分よく過ごせるようになるだけでなく、取り巻く周囲の環境も変わる。
・結果
・他人からの承認
・欲しいもの
・お金
これらのいわゆる自分の外側にある、幸せというのは、自分の内側、つまり、自分を満たせば、勝手についてくる。
一般的に、外側の幸せというのは「自ら取りに行くもの」とされているが、その意識は、その意識で持つのは構わないが、強すぎるのはいけない。
その意識だけで、外側の幸せに挑んで、それが手に入らなかった場合、潜在意識に「(外側の幸せは)難しい!」「(外側の幸せは)ない!」「無理!」と刷り込まれてしまうからだ。
その潜在意識を変えるには、一旦、外側の幸せを諦めて、自分を心地よくすることだけを毎日意識し、行動することである。
冒頭でもあるように、「衣食住」と「三大欲求」と「やりたいこと・いいたいこと(本音・本望)」を徹底的に満たす。
中途半端はダメ。自分が着たい服ではなく、ただ無難な服をチョイスすることもやめ、コンビニ弁当は早く済むからと理由だけで選ばない。
本当に好きなら、それでも構わない。でも、好きでもないし、気分が乗らないものを選択したところで、精神的にどんよりするし、それこそ、現実にも影響するから、お勧めできない。
現実をより良いものにしたいなら、自分を満たすことだけ考えれば、成り行きで勝手に良くなる。
逆に、自分が満たされてない状態で、欲しい現実の為にあくせく動いたところ、その現実はこない。
自分に余裕がない人より自分に余裕がある人に仕事もお金も友達も集まるのは容易に想像できる。
全員が幸せになりたいと思ってるのに、一握りしか幸せになれない理由
「やりたいことだけやって
やりたくないことはやめる」
という考え方は世間に知れ渡っているし、僕もそれは正しいと信じている。
というより、「幸せ」という枠組みだけで考えれば、自分が信じる以前に真理であり、「僕は男である」と同じレベルで当たり前なのである。
でも、この法則通りに、動けてる人なんて、全体の一割に満たない程度だと思う。
なぜ、「やりたいことだけやって、やりたくないことはやめる」を実践すれば、幸せになれると潜在的には分かっているのに、できないのか、やらないのか?
それは、頭(思考)で物事を判断しているからだ。
どういうことかというと、例えば、今の会社に不満があって、他にやりたいことがあるが、今の会社に居続けてる人はいると思う。
居続けてる人の思考回路は、
「家族を養っていくために(やりたいことはできないの!)」
「やめたら、他の人に迷惑をかけるから(だから、会社を辞めたいけどやめれないんです)」
「給料がなくなったら、生活できなくなります(だから、嫌だけど、我慢して働いています)」
という言い訳をして、会社なら会社にいる自分を正当化しようとしているのだ。
でも、それは、単に頭(思考)だけを腑に落とさせようとしているだけだ。
それでは、「身体性」が伴わないし、もっといえば、「身体」が腑に落ちていない状態なのだ。
だから、頭(思考)の声を無視して、心(直感)に身を委ねることが大切なのだ。
心(直感)に身を委ねると聞くと、スピリチュアルな感じがして、「そんなの信じないぞ!」と身構える人もいると思うが、そんな難しいものではない。
単に、「楽しいor楽しくないか」で物事を判断するだけである。
我慢して、働いてるなら、やめればいいし、他にやりたいことがあるんなら、それをやればいい。
もし、会社をやめて、やりたいことをやれれば、相対的な結果が出るかは、分からないが、「身体性」は伴うはずだ。
楽しければ、「身体」はその方向に動いてくれるし、仮に、思考の堂々巡りの結果、それが正しくても、楽しくなければ、「身体」は能動的には動いてくれない。
「楽しい」という感情も、「心地よい、気持ちいい」という感覚も、すべて「身体」から発せられるものである。
だから、感情も感覚を無視することは、「身体」を無視することを意味する。
逆に、感情や感覚を感じきって、それに従えば、途端に「身体性」が伴う。
しかし、それは、思考すれば、正しくないと判断されるかもしれないが、無視してほしい。
「やりたいことだけやって、やりたくないことはやめる」なんていうのは、正しくないことのほうがほとんどで、正しくはないけど、楽しいのだ。
しかも、正しいか正しくないかなんて元々は他人が定めたものであって、それも、時代によって、何が正しいか正しくないかなんて変遷するのだ。
あと、「やりたいことや好きなこと」に理由を求めることはやめたほうがいい。
やりたい理由を見つけようとした瞬間、思考を使うから、これで稼げるかとか仕事になるかという打算が入るからだ。
本来、好きなものとかやりたいことというのは、無条件であり、無条件でなければならない。
逆に、好きなものややりたいことに、根拠があればあるほど、途端に嘘っぽくなる。
というより、好きじゃなくなる。好きなあの子が好きだから、自分も好きになって、あの子と共通項を作ろうなんていうのはただ打算であり、好きという感情は、そんな打算や外から強制されて持つようなものではない。
いつだって、好きという感情は内側から湧いてくるものだし、そこに好きな理由なんてなかったし、無意味無邪気無条件だった。
だから、最後言えることは、心(直感)に従いましょうということ。
そして、心に従うものには、常識、嫉妬、お金がなくなる、論理的に見て正しくないとかといった向かい風が吹いてくることを肝に銘じ、それに負けじと、心が示したルートを進もう。
「タバコを吸ってしまう人」と「スマホをいじってしまう人」は本質的には同じ
欲求が矛盾するというか、相反することがある。
タバコを例にとって見ると、「タバコを吸うのをやめたい」と思ってる人がいても、結局、禁煙失敗してしまうのは、これは、「タバコを吸い続けたい」という相反する欲求があるからだ。
タバコをやめたい⇔タバコを吸いたい
図式化すると、こうなるわけだが、分析した結果分かったことがある。
前者は、「身体性」が伴う欲で、後者は、「習慣」や「惰性」による欲であるということだ。
タバコをやめたいという欲が出るのは、基本的には、身体が「やめたい!」というサインを出しているものであって、タバコを吸いたいという欲とは、同じ欲でも異なるのだ。
タバコを吸いたいという欲は、最初から、「好き」という感情を持って、吸い始めたというより、毎日、吸ってたら、日に日に、タバコを吸うことが当たり前になっていき、「寝るとか食う」とかと同じレベルに日常に落とし込まれてしまうのだ。
タバコを長らく吸っていて、やめた人が良く言うのは、
「まぁー飯の味がうまくなった。」
これは、「身体性」が伴う欲であることを暗に意味するはずだ。
だって、以前は、「うまくなかった」と感じてたわけだから、タバコをやめることで、「身体」がクリアになり、「うまくなった」ということは、「身体」が喜んでいるからだ。
「身体」が喜ぶ欲、つまり、「身体性」が伴う欲に従ったほうがいいことは証明できたと思う。
もっと、「身体性」が伴う欲に従う良さを知ってもらうために、また、例を出したい。
Aというサラリーマンの人がいて、今日は休日。予定はありません。
なので、何となく、暇つぶしに、スマホの電源をつけて、スマホゲームをやったり、ツイッターをやったり、はたまたネットサーフィンをして、休日の一日が終わりました。
そして、寝るころに思いました。
「何やってんだろう?」という虚無感が襲いましたとさ。終わり。
そんな馬鹿なとお思いの方もいるとは思うが、現実にいるみたいだよ。こういう人。
スマホ依存症っていう言葉もあるくらいだからね。
これも、タバコの事例と同じで、「身体性」が伴う欲と「習慣」や「惰性」による欲で成り立ってます。
例では、具体的な「身体性」の欲がなかったのだが、「習慣」や「惰性」による欲で打ち消されるということも十分現実世界でありえる。
○○やりたい<スマホをいじりたい
式にするとこうなるが、僕も含めて「習慣」や「惰性」による欲の奴隷、スマホの奴隷となっているのを自覚したほうがいい。なぜ、「習慣」や「惰性」による欲の奴隷になってしまうのか。
それは、昔は、自分の近くには楽しめるものがなくて、必然的に、外にしか喜びや娯楽はなかったけど、今は自分の近くに楽しめるもの(タバコ、スマホ、アニメキャラクターへの疑似恋愛)があって、ある程度(50%ぐらい)の充足感が得られるからだ。
タバコを吸ってしまうのも、スマホをいじるのも、生身の人間が怖くて、二次元では自分は愛されると思い込めるからアニメに没頭してしまうのも、本質的には同じだ。
「習慣」や「惰性」による欲の素(タバコ、スマホ、アニメ)は、ものすごく近くにある。
反対に、「身体性」が伴う欲の素(飯がうまい、生身の人間に愛される、他人に喜びを与える)は、遠くにある。
でも、「身体性」が伴う欲の素が遠くにあっても、「身体性」が伴う欲は「習慣」による欲より、深い。
つまり、潜在的には、「身体性」が伴う欲を求めていることになる。
そりゃあ、アイドルとの疑似恋愛より生身の人間に愛されるほうが嬉しいでしょ。
難しいけど、「身体」が求めてるんだったら、そっち従うほうが良くないかい?