魅力があるのに、ないと信じるわけ

純粋に歩くのと音楽を聴きながら歩くのは、どちらが、数多くのことに気づくかというと、それは、純粋に歩くことだ。

なぜなら、音による「刺激」のせいで、その分、視野が狭くなり、気づきが減る。

五感がすべて、聴覚に取られるため、気づくのは、聴覚による情報だけになる。

純粋に歩くのは、聴覚だけによる気づき以上のものを与える。なぜなら、五感がすべて働いてる状態なので、脳が活発になり、新たな気づきや考えをもたらしてくれる。

学術的根拠はないけど、僕の感覚では、そう感じる。

あと、純粋に歩いてると、何度か通ったことがある道でも、いろんなおいしい食べ物屋さんとか隠れ家的店も新たに見つけられるから楽しいし。

で、今日は、そういうことを書きたいわけではなく、魅力があるのに、ないと信じる理由だ。

でも、先ほど書いたこともリンクするんだけど....。

「思う」ことは、「刺激」である

自分には、魅力があると思ってる人間と自分には、魅力がないと思ってる人間がいる。

魅力があると思ってる人間は、自分の中に「ある」魅力に気づきやすい。

一方、魅力がないと思ってる人間は、自分の中に「ない」根拠を求める。

前者は、魅力があることに気づき、後者は、魅力がないことに気づく。

こういう風に書くと、自分には、魅力があると思ってるほうが得だと分かる。

何かを、「思う」ことは、自分に「刺激」を与えることなのだ。それも、「思う」こと以上の、「刺激」は存在しない。何なら、人間の固定観念や価値観は、「思う」ことの積み重ねで出来ている。

先ほど、書いた、歩くと音による刺激を例にとると、歩いていて、途中で、音楽を聴くことによって、聴覚による刺激で、脳が占拠されてしまう。

このことにより、音による、気づきが多くなる。

もう一つ、例として挙げるなら、私が、「リンゴ」が大好きで、リンゴについて、四六時中考えてるとする。

ある日、カフェで、本を読んでるときに、遠い席で、「リンゴ」について、話していたら、おそらく、興味のないことより、素早く、聴き耳をたてようとしてしまうはずだ。

このように、「思う」とは、自分を変えるには、なくてはならないものだ。

魅力がないと思ってると、「ない」理由や根拠を見つけようとしてしまう。

そして、まんまと、魅力がない理由や根拠を見つけて、安心する。

そして、また見つけようとするというループである。

これって、魅力があると思ったほうがやっぱり、得だし、幸せだろう。

まず、自分には、魅力があると思ってる人は、自分の中に「ある」を見つけようとする。

そして、自分の中に「ある」を見つけ出す。で、また探すという、ループ。

魅力があると思ってるのとないと思ってるのとだけでこんなに違うのだ。