あなたの今の現実と感情はみそ汁で分かります

進みたいところへ進むための嘘は嘘ではない。

浅いところでは、嘘をついてるけど、深いところ、つまり、感情は嘘をついていない。

「バイトを辞めたい」という思いがあるなら、嘘をついてでもやめるべき。

本当のことを言って、バイトや仕事を辞めてもいいけど、その理由が、自分が上司だったら肯けないと想像できるなら、本当の理由なんてどうでもいい。

本当の本当だけを実現できれば、感情に従えてることになるから。(バイトを辞めたい)

感情に逆らわなければ、病気もしないし、ポジティブでいられる。

無理に、病気を予防しなくても、病気はしないし、ポジティブ思考でいられるトレーニングをしなくたって、自然にポジティブな状態だ。

なぜなら、感情に従うとは、やりたくないことはやらず、やりたいことだけやっている状態だから。

擬音語で言えば、「ワクワク」と「ワサワサ」を感じ切り、「ワクワク」に従い、「ワサワサ」はやめればいい。

僕の場合は、なすびは嫌いだから、「ワサワサ」するけど、じゃがいもは好きだから、「ワクワク」する。

素直に「ワサワサ」を感じたなら、拒否して、「ワクワク」を感じたなら、受け入れればいい。

そうやって、日常を「ワクワク」だけで埋めていけば、感情は充足され、現実も良い方向に変わる。

なぜ、感情が満たされれば、現実が変わるのかは、なんとなくしか今は分からないけど、感情が欠乏してる状態の人が、現実を変える力を持ってるとは考えにくい。

単純に、ニコニコしてる人には、人が集まるし、精神が病んでる人には、人は寄ってこない。

だからといって、ニコニコしてる人の真似を表面的に、目に見えてる所だけ真似たところで、感情が下向きになってる人は、人を集める求心力は持ちえないし、感情も上向きにはならない。

元々、笑顔じゃない人が、笑顔をしたところで、「したくねぇよ!」と思ってるなら、何の得もない。なんなら、その「したくねぇよ!」に従ったほうが、感情を感じ取ってることになるから、現実が自分通りになっていくはずだ。

嘘の笑顔なんて、ほとんどの人が、なんとなく察知して、その顔をした人の所には近づかない。

逆に、感情に同化した身体の人には求心力がある。

「やりたくないけど、やらなければならないからやっている」状態は、感情を無視していて、感情と身体が同化してるとは言いがたい。

感情と身体はイコールにならないと、現実も変わってくれない。

目に見えてるもの、つまり、現実は、目に見えないもの、つまり、感情によって支配されてるといって、過言ではない。

感情はみそ汁で言えば、だしであり、現実は、具材だ。

だしさえしっかりしていれば、具材が少なくても最低限のうまみは確保されてるから、その安心感で現実を変えるために、体感や行動ができる。

自分が見てる現実はただ単に、感情や思考の結果だから。感情に従ったいけば、遅かれ早かれ、見たい現実はそこにあって、感情と相反すれば、見たくない現実があるというシンプルな仕組み。

だから、能力があって、頭がよかったとしても、感情を無視すれば、誰かがどれだけ羨む現実、結果を出せていても、当の本人は、満足しないし、現実もいずれ下降するだけ。

能力も、頭のよさもただの具材だから、具材がいくら高級でも、だしが貧困なら、みそ汁おいしくない。

逆に、不器用で、頭が悪くても、感情を感じきれば、相対的な幸せはどうであれ、絶対的な幸せは保証されている。

つまり、最低限のみそ汁の味は保証されている。

欲しい現実は求めなくても、勝手に向こうから来る

「衣食住」「三大欲求」「いいたいこと・やりたいこと(本音・本望)」を満たすことは、自分の幸せと直結する。

「食べたいものを食べてるか?」

「着たい服を着てるか?」

「やりたいことをやっているか?」

などと自分の心に問いかけて、全てに「はい」と答えられようになれれば、自分が気分よく過ごせるようになるだけでなく、取り巻く周囲の環境も変わる。

・結果

・他人からの承認

・欲しいもの

・お金

これらのいわゆる自分の外側にある、幸せというのは、自分の内側、つまり、自分を満たせば、勝手についてくる。

一般的に、外側の幸せというのは「自ら取りに行くもの」とされているが、その意識は、その意識で持つのは構わないが、強すぎるのはいけない。

その意識だけで、外側の幸せに挑んで、それが手に入らなかった場合、潜在意識に「(外側の幸せは)難しい!」「(外側の幸せは)ない!」「無理!」と刷り込まれてしまうからだ。

その潜在意識を変えるには、一旦、外側の幸せを諦めて、自分を心地よくすることだけを毎日意識し、行動することである。

冒頭でもあるように、「衣食住」と「三大欲求」と「やりたいこと・いいたいこと(本音・本望)」を徹底的に満たす。

中途半端はダメ。自分が着たい服ではなく、ただ無難な服をチョイスすることもやめ、コンビニ弁当は早く済むからと理由だけで選ばない。

本当に好きなら、それでも構わない。でも、好きでもないし、気分が乗らないものを選択したところで、精神的にどんよりするし、それこそ、現実にも影響するから、お勧めできない。

現実をより良いものにしたいなら、自分を満たすことだけ考えれば、成り行きで勝手に良くなる。

逆に、自分が満たされてない状態で、欲しい現実の為にあくせく動いたところ、その現実はこない。

自分に余裕がない人より自分に余裕がある人に仕事もお金も友達も集まるのは容易に想像できる。

全員が幸せになりたいと思ってるのに、一握りしか幸せになれない理由

「やりたいことだけやって

やりたくないことはやめる」

という考え方は世間に知れ渡っているし、僕もそれは正しいと信じている。

というより、「幸せ」という枠組みだけで考えれば、自分が信じる以前に真理であり、「僕は男である」と同じレベルで当たり前なのである。

でも、この法則通りに、動けてる人なんて、全体の一割に満たない程度だと思う。

なぜ、「やりたいことだけやって、やりたくないことはやめる」を実践すれば、幸せになれると潜在的には分かっているのに、できないのか、やらないのか?

それは、頭(思考)で物事を判断しているからだ。

どういうことかというと、例えば、今の会社に不満があって、他にやりたいことがあるが、今の会社に居続けてる人はいると思う。

居続けてる人の思考回路は、

「家族を養っていくために(やりたいことはできないの!)」

「やめたら、他の人に迷惑をかけるから(だから、会社を辞めたいけどやめれないんです)」

「給料がなくなったら、生活できなくなります(だから、嫌だけど、我慢して働いています)」

という言い訳をして、会社なら会社にいる自分を正当化しようとしているのだ。

でも、それは、単に頭(思考)だけを腑に落とさせようとしているだけだ。

それでは、「身体性」が伴わないし、もっといえば、「身体」が腑に落ちていない状態なのだ。

だから、頭(思考)の声を無視して、心(直感)に身を委ねることが大切なのだ。

心(直感)に身を委ねると聞くと、スピリチュアルな感じがして、「そんなの信じないぞ!」と身構える人もいると思うが、そんな難しいものではない。

単に、「楽しいor楽しくないか」で物事を判断するだけである。

我慢して、働いてるなら、やめればいいし、他にやりたいことがあるんなら、それをやればいい。

もし、会社をやめて、やりたいことをやれれば、相対的な結果が出るかは、分からないが、「身体性」は伴うはずだ。

楽しければ、「身体」はその方向に動いてくれるし、仮に、思考の堂々巡りの結果、それが正しくても、楽しくなければ、「身体」は能動的には動いてくれない。

「楽しい」という感情も、「心地よい、気持ちいい」という感覚も、すべて「身体」から発せられるものである。

だから、感情も感覚を無視することは、「身体」を無視することを意味する。

逆に、感情や感覚を感じきって、それに従えば、途端に「身体性」が伴う。

しかし、それは、思考すれば、正しくないと判断されるかもしれないが、無視してほしい。

「やりたいことだけやって、やりたくないことはやめる」なんていうのは、正しくないことのほうがほとんどで、正しくはないけど、楽しいのだ。

しかも、正しいか正しくないかなんて元々は他人が定めたものであって、それも、時代によって、何が正しいか正しくないかなんて変遷するのだ。

あと、「やりたいことや好きなこと」に理由を求めることはやめたほうがいい。

やりたい理由を見つけようとした瞬間、思考を使うから、これで稼げるかとか仕事になるかという打算が入るからだ。

本来、好きなものとかやりたいことというのは、無条件であり、無条件でなければならない。

逆に、好きなものややりたいことに、根拠があればあるほど、途端に嘘っぽくなる。

というより、好きじゃなくなる。好きなあの子が好きだから、自分も好きになって、あの子と共通項を作ろうなんていうのはただ打算であり、好きという感情は、そんな打算や外から強制されて持つようなものではない。

いつだって、好きという感情は内側から湧いてくるものだし、そこに好きな理由なんてなかったし、無意味無邪気無条件だった。

だから、最後言えることは、心(直感)に従いましょうということ。

そして、心に従うものには、常識、嫉妬、お金がなくなる、論理的に見て正しくないとかといった向かい風が吹いてくることを肝に銘じ、それに負けじと、心が示したルートを進もう。

「タバコを吸ってしまう人」と「スマホをいじってしまう人」は本質的には同じ

欲求が矛盾するというか、相反することがある。

タバコを例にとって見ると、「タバコを吸うのをやめたい」と思ってる人がいても、結局、禁煙失敗してしまうのは、これは、「タバコを吸い続けたい」という相反する欲求があるからだ。 

 

タバコをやめたい⇔タバコを吸いたい

 

図式化すると、こうなるわけだが、分析した結果分かったことがある。

前者は、「身体性」が伴う欲で、後者は、「習慣」や「惰性」による欲であるということだ。

タバコをやめたいという欲が出るのは、基本的には、身体が「やめたい!」というサインを出しているものであって、タバコを吸いたいという欲とは、同じ欲でも異なるのだ。

タバコを吸いたいという欲は、最初から、「好き」という感情を持って、吸い始めたというより、毎日、吸ってたら、日に日に、タバコを吸うことが当たり前になっていき、「寝るとか食う」とかと同じレベルに日常に落とし込まれてしまうのだ。

タバコを長らく吸っていて、やめた人が良く言うのは、

「まぁー飯の味がうまくなった。」

これは、「身体性」が伴う欲であることを暗に意味するはずだ。

だって、以前は、「うまくなかった」と感じてたわけだから、タバコをやめることで、「身体」がクリアになり、「うまくなった」ということは、「身体」が喜んでいるからだ。

「身体」が喜ぶ欲、つまり、「身体性」が伴う欲に従ったほうがいいことは証明できたと思う。

もっと、「身体性」が伴う欲に従う良さを知ってもらうために、また、例を出したい。

Aというサラリーマンの人がいて、今日は休日。予定はありません。

なので、何となく、暇つぶしに、スマホの電源をつけて、スマホゲームをやったり、ツイッターをやったり、はたまたネットサーフィンをして、休日の一日が終わりました。

そして、寝るころに思いました。

「何やってんだろう?」という虚無感が襲いましたとさ。終わり。

そんな馬鹿なとお思いの方もいるとは思うが、現実にいるみたいだよ。こういう人。

スマホ依存症っていう言葉もあるくらいだからね。

これも、タバコの事例と同じで、「身体性」が伴う欲と「習慣」や「惰性」による欲で成り立ってます。

例では、具体的な「身体性」の欲がなかったのだが、「習慣」や「惰性」による欲で打ち消されるということも十分現実世界でありえる。

 

○○やりたい<スマホをいじりたい

 

式にするとこうなるが、僕も含めて「習慣」や「惰性」による欲の奴隷、スマホの奴隷となっているのを自覚したほうがいい。なぜ、「習慣」や「惰性」による欲の奴隷になってしまうのか。

それは、昔は、自分の近くには楽しめるものがなくて、必然的に、外にしか喜びや娯楽はなかったけど、今は自分の近くに楽しめるもの(タバコ、スマホ、アニメキャラクターへの疑似恋愛)があって、ある程度(50%ぐらい)の充足感が得られるからだ。

タバコを吸ってしまうのも、スマホをいじるのも、生身の人間が怖くて、二次元では自分は愛されると思い込めるからアニメに没頭してしまうのも、本質的には同じだ。

「習慣」や「惰性」による欲の素(タバコ、スマホ、アニメ)は、ものすごく近くにある。

反対に、「身体性」が伴う欲の素(飯がうまい、生身の人間に愛される、他人に喜びを与える)は、遠くにある。

でも、「身体性」が伴う欲の素が遠くにあっても、「身体性」が伴う欲は「習慣」による欲より、深い。

つまり、潜在的には、「身体性」が伴う欲を求めていることになる。

そりゃあ、アイドルとの疑似恋愛より生身の人間に愛されるほうが嬉しいでしょ。

難しいけど、「身体」が求めてるんだったら、そっち従うほうが良くないかい?

「好きなことはただやっている」という自然主義

好きなものに人は反応するように出来ている。

僕の場合で言うと、メッシのドリブルは美しいと思うし、じゃがいもは週四日で食べるぐらい好きだし、東京03のコントは笑いのツボだし、波瑠や満島ひかりがテレビに出てるとついつい見てしまう。

何故かは分からないが、反応してしまうもの、それが「好きなもの」の本質である。

その「好きなもの」は人それぞれ違う。

僕がメッシのドリブルは美しいと思ったからといって、他人はメッシのドリブルを美しいと思うとは限らない。

そもそもサッカーが嫌いかもしれない。そしたら、メッシのドリブルを見ても何も感じない。つまりは、反応しないということになる。

逆に、僕はなすびが嫌いなので反応しませんが、なすびが好きな人は反応する。

基本的に、「好き嫌い」というのは、生まれてすぐに確定され、変わらない。

たまに、自分の好きなもののプレゼンを他人に熱心にして、好きにさせようとする人がいるが、「好き」という感情は他人では植え付けることはできない。

なぜなら、「好き嫌い」という感情は、自分から発せられるものだから。(すべての感情すべてだが)

だから、自分の好きなもののすばらしさを他人にも分かってもらいたいなら、とりあえず一言

「○○やってみて!」

だけだ。

好きか嫌いかは、生まれてすぐには決まっているのだが、体感しないと、何が好きか何が嫌いかは自分では分からないのだ。(潜在意識では分かってるけど)

体感して始めて、じゃがいもは好きになり、なすびは嫌いになるわけだ。

基本的に、じゃがいもは好きなままだし、なすびは嫌いなままである。

しかし、「好き」という感情に、意味を持たせたり、条件を加えると嫌いになる可能性がある。

僕は料理も好きなのだが、それでお金を稼ごうとしたり、無理してまでうまくなろうとする気持ちはない。ましてや、自分の作ったじゃがいも料理をSNSにアップしようとも思わない。

もちろん、そうしたいと思ったら、そうする。

でも、「好き」という感情は野放しにしてたほうがうまくいくと思う。

うまくなろうとしなくても好きなら毎日、料理してしまうし、勝手にうまくなってしまうものだから。

好きなことはただやっている。それだけでいい。

好きなものをお金や仕事と結びつけるから、「努力は報われない!」っていう、不満が出てしまうんだよ。

そもそも好きでやってるんだから、努力とか報われる、報われないが出てくる時点で、おかしいのであって、ホントに好きでやっている人はただただ好きなことをやってるだけだからね。

だから、好きなことをやりたくないときはやらないし、疲れたらやめるもん。

好きという感情は自然だから、そのままにしておけばいいのだ。

邪な欲求を足せば(料理をブログでアップして、アクセス数をアップしたい、ブログで収益が欲しいとか)、自然さが失われる。生まれたばかりの子ウサギを人間が触ったら親から世話されなくなるように。

常識や理性に縛られれば、直感が鈍くなる

汚い部屋よりきれいな部屋がいいはずだし、

ほこりがついている鏡よりほこりがついてない鏡がいいはずだし

毛だらけの布団より毛もクルクルで除去して、干した布団がいいはず。

常識的に考えてそうであるのとは別に、「心地よくありたい」という面から見たら、後者のほうがいいと感じる人が多い。(汚いほうが心地よいという例外もあるけど)

あくまで統計の結果であって、僕は、綺麗な部屋や干した布団を推奨したいわけではない。

もっと深い「心地よくありたい」という欲に従うことを推奨したい。

「心地よさ」も人それぞれポイントがあり、それを五感でキャッチできるかが大切になってくる。

僕の場合でいうと、比較的綺麗な部屋であるという自負はあるもののそれでも、ブログ書いている最中、鏡のほこりを「不快」だと感じた。

そう、この「不快だと感じた」ことが重要で、そのあと、「不快」の元を除去するかはどうでもいいというか、何より一番は「反応」できたかだ。

「反応」という言葉は、「もやっと」とか「ワクワク」に言い換えてもいい。

何に「もやっと」と感じて、何に「ワクワク」と感じるかは、人それぞれだし、ましてやそういう「反応」に人が気づかないことも多い。

常識や理性に縛られてる人ほど、そういう人が多い。

なぜなら、頭が「反応」してるんじゃなくて、心や直感が「反応」してるから、頭中心で物事判断してる人ほど、「反応」に気づかない。

反応はするんだけど、常識や理性が瞬時に蓋をし、「反応」それ自体があったことを忘れてしまうのだ。

現代人は、ほとんどこのケースだと思う。

じゃあ、どうすれば、「心地よくありたい」状態を作れるのか。

「衣食住」と「三大欲求」だけにとりあえず焦点を当てて生活をしてみましょう。

そして、その中で、「不快」に感じたもの、「心地よく」感じたものを書き出しましょう。書かないと、「反応」なので、すぐ忘れて、頭はそれさえなかったものと処理してしまいます。

「着たい服を着ているか」「食べたいものを食べているか」「目覚めがいいか悪いか」

「ベッドは快適か」「机の上にほこりがついている気になるかならないか」

などなど挙げればキリがありません。

そういった質問を自分に問いかけてみてください。

何に「反応」し、何に「反応」しないかは人それぞれです。

反応すれば、自分らしくあるための材料が増えたことになります。

「不快」と感じたならば、取り除けばいいわけだし、「快」と感じたならば、増幅させればいいだけですから。

「お金がない」という現実がもたらすメリット

現実は、自分を映す鏡である。

自己啓発やスピリチュアル界隈では、常識化された説だと思う。

自己啓発やスピリチュアルに疎い私ですら、「現実は、自分を映す鏡である」を認識しているということは、ここ数年で爆発的に人気になったのか、この言葉が無意識、潜在的レベルで引っかかったのどちらかだろう。

おそらく、どちらも正解で、ここ最近、「現実は、自分を映す鏡である」を感じさせられた出来事が起こったので、書きたい。

「お金がない」という現実が教えてくれたこと

先月まで、お金がなくなると、僕の通帳を持つ母親に、「お金がないから、振り込んでほしい」という旨を伝え、お金を振り込んで貰っていた。

だから、お金がなくなるという感覚も知らなかったし、不安もなかったのだが、今月から、通帳を持つ母親の懐事情が変わったらしく、多くのお金を振り込めなくなった。

だから、以前のように

お金がない➡貰う➡お金がある

というループが出来なくなってしまった。

そこで、僕は、考えた。お金が貰えないということは、お金を出すのを制限しなければなりません。

ですが、我慢することはいけません。我慢すると精神的にネガティブな方向に、マイナス方向に進んでしまう。

だから、単に刺激を満たすためにお金を費やすことはやめることを試みました。

まず、以前は、一日二食食べていたのですが、一日一食に減らしました。

前までは、朝飯をパンで済ましていましたが、「本当に、毎日同じようなパンを食べたいか」と自分自身の直感に問いました。

その結果、自分の直感は、パンを食べることを許可しませんでした。

朝、パンを食べなくなったことで、とりあえず、空腹を満たすためだけに、お腹に何かを入れるという価値観が無くなりました。

それだけではなく、純粋に食べることの喜びが増えました。

一日一食しか食べないわけですから、その一食を慎重に選ばなければいけません。

今、食べたいものを思考し、直感して、毎日自炊し、食べています。

だから、必然的に料理のレパートリーも増え、料理もうまくなってると思います。

それは、そうです。

「とりあえず、空腹を満たすためだけ」の食事は、いつもの選択をしてしまい、食事も速くすまそうとしてしまいます。

一方、一日一食だけの食事は、食に対して喜びを求めようとするため、毎回違う料理を味わおうとします。

「空腹をみたすだけの食事」と「一日一食だけの食事」比べたら、広い意味では、食欲を満たすという意味では同じかもしれません。

でも、「空腹を満たすだけの食事」は刺激が欲しいだけの人にしか見えない。

夜中のポテチもファーストフードも空腹を満たすという刺激であり、潜在的にそれを欲しているかというとそうではないはずです。

潜在的に欲しているとは、本当にやりたいこと、本当に好きなことと言い換えていいでしょう。

「単に空腹を満たすための食事」より「ブログを書く」ほうが僕にとっての喜びです。

「      ””       」より「本当に食べたいものを食べる」ほうがいいはずです。

お金がないという現実は、刺激による選択を露わにし、直させる機会を与えてくれました。

お金に限りがあるとは悪いことばかりではないはずです。

お金に限りがあるということは本当にやりたいこと、好きなことにしかお金を出せないことを意味します。

そこで、刺激を満たすためだけの出費を見つけられたら、やめましょう。

やめたら、その分、好きなことに時間を費やせたり、ぽっと現れたりします。

僕の場合、一食減らしたおかげで、夜は、眠くならずにゆっくりブログを書いたり、読書に時間がさけるようになりました。